正しいとは何か4

少し時間が空いてしまいました。2週間ぶりですね、「正しいとは何か」のシリーズ。

先に結論から書いてしまうと。

1) 時代によって(人の気持ち)によって変わるもの。
    → A)民主主義の場合は「多数決主義」でしょうし、専断主義の場合は決断者の言う通りになる。
    → B) 多数決は、事象の先なのか後なのか?

2) 自然の法則によって決められるもの
    →自然は絶対である

3) 前提からの論理的推論によって正しさが証明できるもの
    →論理は絶対である。これは、前提(公理)の正しさを1)か2)に求めることになる。

4) 再現性や検証ができない場合はどうすればよいのか?
    → 1)にも関わりますが、結局バズるのはココ

を、きちんと区別していこう、という話に終始します。そして、これ以外に分類できる事例があるのかな。。。

たとえば、台風の予報について。予報が正しいか正しくないか、実は1)~4)にまたがっているので、世論で炎上することがあります。南海トラフも同様ですね。でも、起きてしまえば2)なのです。次回は、南海トラフや台風予報が1)~4)の全てに関わることの説明をします。

 

| | コメント (0)

「正しい」とは何か3

前回に続いてパリオリンピック2024の話。

ボクシングの女子選手で、XY染色体を持った方がいて、男性か女性か、で議論になりました。IOC(オリンピック協会)は、女性と判断。IBC(ボクシング協会)は男性と判断、ということで、国際的にも黒白がつけにくい。

これは、どちらが「正しい」のでしょうか?

色々な意見があります。これこそ、「多数決」で決すべき問題、と無風凧は考えます。但し。多数決は下記のようでなければなりません。

1) 科学的(客観的に)だれが判断しても同じ結果になるエビデンスを元にした判断基準

2) 事前に決められた判断基準を、1)で科学的に判断。

3) 1)自体は、多数決になる。

つまり。

「A)染色体で判断するか」
「B)外性器で判断するのか」
「C) B)の場合、トランスジェンダーをどのように扱うのか」
が大きな選択肢でしょうか。これらは、客観的に、そのうえ「事前に」決定しておくことができる事項です。それが決まったら、順守する。それが「正しい」と言える唯一の方法だと言えます。ただし、「その場の雰囲気で決定する」という決定は無し、です。
注:A)B)C)以外にも選択肢があるかもしれません。それも含めて、事前に決定しておく、ことです。

心情的に「可哀そう」という気持ちも、もちろん考えなくてはならないかもしれませんが、その「可哀そう」自体は客観性がない「主観的感情」に基づいています。

そのように考えると。

「正しい」は、あくまで客観的に判断されなくてはならないことが判ります。

 

| | コメント (0)

「正しい」とは何か2(オリンピック体重制限の100g超過問題を例に)

丁度良い例があるので、今回の「正しいとは何か」では、世論とルールの関係、を扱ってみたいと思います。

皆様もご存じの通り、2024パリオリンピックの女子レスリング50キロ級で、インドのフィガド選手が失格になりました(コチラ など参照)。失格の理由は、制限体重オーバー。たった100gですが、計量でオーバーしていたために、失格になったのですが、上記記事を見てもわかるように世界中に同情論が沸いている。また、フィガド選手自身も国際スポーツ裁判所に提訴する、とのことです。

読者のみなさまは、失格賛成ですか?それとも同情派でしょうか?

ここに、「正しい」について考えるキッカケがあります。

そもそも論として、「ルールを守ること」が「正しい」ということに、異論がある人は少ないでしょう。その意味で、同情派の人は間違えていることを主張していることになります。もし、同情派の人を「正しい」とするならば、「ルールが間違えている」ということになります。(論理的にそれしかありません。)

同情派の人は、「たった100g」と言います。では、100gなら許しても良い、というルールを作ったとしましょう。選手はみな50㎏100gの体重を上限として捉え、調整してくることになるでしょう。そう、50㎏級は50.1Kg級に変更ということになります。レスリングのような格闘技は、体重が多い方が有利ですからね。

では、同情派の方に伺います。50.1Kg級で50gオーバーした人に同情できますか?もし、これを許すとしたら、、、オリンピックの体重別の意味が無くなってしまうことは、もうお分かりいただけたでしょう。

このように。

ルールに従うことが正しい、というのは、厳密に「人間が制御」できる事象です。刑法における罪刑も、日本では罪刑法定主義で範囲はあるものの法律で決められています。(もっとも、これが守られていない、ことについては日を改めて書きたいと思います。)

このように、ルールに対する「正しい」は、本来多数決で決まるものではなく、論理的に決まるものなのです。勿論、そのルール自体が正しいか否か、は、ルールを作る時の「多数決」の結果です。一度決めたルールであれば、繰り返しになりますが「論理的に」正しい判断というのは決定します。

これが「正しい」を類型化する時の一つのグループ(類)です。

 

 

| | コメント (0)

「正しい」とは何か(ランキング番外編)

オリンピックの「誤判定(?)」が続いています。鹿児島県警、兵庫県知事の百条委員会、そして河野デジタル相の「マイナ保険証は強制ではない(コチラ など 参照)」発言、など、色々と「何が正しいのか?」が疑問になる場面が続いています。

なので、正しい、とは何かについて、時々論考していきます。大筋は、

1)「正しい」自体の意味が複数あること

2)相いれない「正しい」が紛糾すること。それはどちらも正しくないこと。

3)それらを含めて、正しいには序列があること。

というような内容です。論考の過程はは、ランキング理論と非常に似たものになったようです。

さて。正しいとはどういうことか、正しいの定義、から始めます。これだけでも本気で書けば原稿用紙100枚レベルの内容ですが、ブログなのでかいつまんで。

■正しい、とは何か。

究極には、「一番沢山のひとが正しいと信じたことが正しい、、、(1)」というのが定義になるでしょう。ということは、「正しいとは何か?」について、世界中の人が(1)をみとめてくれないと、この後の記述が成立しないことになります。いや、この後の論考を読んで、(1)が「正しい」の唯一の定義であることにきがついてほしい、と言い換えても良いかもしれません。

ここで「自己言及のパラドックス(クレタ人のパラドックスとして有名)」を思い出してみましょう。

「この文章は正しく無い」。。。(2)

(2)の文章の内容が「正しい」場合は、「(2)は正しくない」と主張ですから、何処まで行っても正否が確定しません。これが自己言及のパラドクス。

「一番沢山の人が正しいと信じたことが正しい」。。。(1)

これは、自己言及のパラドックスにはなっていないのですが、その「片鱗」を持っています。そう、「一番沢山の人」の部分です。これがを定量的に示すことができるか、が、実は不明確です。

「それでも地球は動いている」

は、ガリレオの言葉として有名ですが、その時代に「一番沢山の人が、地球が動いていると信じていたわけではない」ありません。21世紀の今ですら、地球は動いていない、と信じている方がゼロではありません。でも、殆どの方が正しいと信じているから、「地球は動いている」が正しいと言えるのです。では、なぜほとんどの人が「地球は動いている」ことを信じるに至ったのでしょうか?

このように考えると、「正しい」ということの難しさを改めて感じることになります。

今日はこのあたりで。

| | コメント (0)