政治家の定年制(女性自身、の記事より)

今日は先日の女性自身の記事を起点に、持論を展開します(コチラ 参照)。

野村農水省の汚染水発言。ボディブローのように現政権に影響を与えています。女性自身の記事によると、政治家の定年制がまたぞろ復活しているようです。

人は、誰でも老いていくもの。だから、老いていくこと自身を否定することができません。しかし、自分の限界は認識しなくてはならないと無風凧は考えます。それができるなら、自分の限界を認識して引退する。人間の営みであると言えます。逆に言えば、加齢を理由にした責任の中ではあってはならない。頻発するようになると、他人を強制=定年という問題が取り沙汰されてくるようになるのでしょう。

第二次世界大戦後の日本は、寿命が著しく伸びました。特に、いわゆる団塊の世代+αは、過去に例のない長期政権を担っている、と言っても過言でありません。ここで言う長期政権というのは、政治の世界だけを意味しているのではなく、実社会においての意思決定においてという意味を含んでいます。

しかし。

人の生物としての限界というものっがあります。体力勝負のスポーツの世界。40歳を過ぎた野球の選手というだけでもずいぶん高齢という感じがするでしょう。頭脳の世界はもう少し高齢の人が活躍できるのかなと思う人もいるかもしれませんが、頭脳もピークは30代。将棋の世界を見てください。40代ですら、一線級ではいられません。まして50代は、、、あの羽生永世七冠をして、後塵を拝しています。

学問の世界も、ノーベル賞級の大きな仕事をするのは大概が40歳。大器晩成と言って60歳代の研究が世の中に出て認められることは皆無です。

このように考えると政治の世界だけ60歳70歳が幅を聞かせているというのは、明らかに能力の劣った人が政治を担っていると言って過言ではないでしょう。つまり、国民は「損をしている」。

女性自身の言う定年制、一概に一律の年齢制限を設けるべきだとは言いませんが、次の世代にバトンタッチしていく仕組みを作ることが重要であるという意味では、大賛成です。

蛇足ですが。この定年制が今惹かれたとすると、、現在45歳から60歳ぐらいの人たちは、結局自分たちの活躍する場がなくなってしまった「暗黒の世代」と言われることになるかもしれません。でも、私たちの子孫のために今、若返りを制度化することが、最も重要なことなのではないでしょうか。

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集英社オンラインの記事が面白い!

今日は、集英社オンラインの記事(コチラ )へのコメント。しばらくすると記事はExpireされるでしょうから、タイトルを引用させていただいておきます。

タイトル:“東大生の官僚離れ”が加速…早慶の学生にも避けられ、厚労省若手キャリアの半数がMARCH卒レベル? 「過酷すぎる労働時間」「ヒラメ幹部に嫌気」「スキルが学べない」のは本当か?

このタイトルですから、書きたいこと万歳ではあるのですが、まずは「厚労省若手キャリアの半数がMARCH卒レベル」という部分から。

これはさすがに「東大 より 早慶、早慶よりMARCHが劣る」という意味にしか読めません。この書き方はいかがなものでしょうか?裏を返せば、東大生が官僚を務めると優秀です、と言っているようにも思えます。

このようなステレオタイプ的な表現は明らかに「学歴社会の弊害」。すくなくとも、学歴フィルタを助長しているように見えます。優秀な人材は何処にでもいます。大切なことは、その方々が「行政を担う」ことであり、東大生が官僚になることではありません。

集英社さん、まずはここから改めていきませんか?

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言葉の定義 について

いよいよ新学期が始まります。大学教授の顔の無風凧は、新入生受け入れの準備をしています。先日も書きましたが、今年の一年生は全員「成人」です(コチラ 参照)。去年の学生と、おそらくはほとんど同じ生い立ちをしてきた彼等彼女等が、いきなり「大人」。教員として何をかえなくてはならないのか、考えてしまいます。

ただ、これだけは確実に言えること。最近の学生は(この言葉が出てくるようになっただけ、無風凧も年を取ったということですね)、昔の学生に比べて「理解力が落ちています」。その反面、表現力が随分高いな、と思う学生が増えています。

理解力が落ちていると感じるのは、文章を読ませると一発でわかります。大学一年生に2000字程度の文章を読ませて、その主張をようやくせよ、というような課題。ある学生は、入試の延長のように線を引いて、キーワード抽出する。書いてある要約は一見素晴らしいのですが、質問すると、前提条件や背景すら答えられない。それどころか、「反対の主張を書いてみよ」というと、支離滅裂になる。

共通テストの数学が長文化した、難化した、というNewsを何度も見ましたが(コチラ など参照)、上述の理解力が落ちていることと関係があるように思います。実際、無風凧は数学として「難化した」とは思っていません。国語の読解力も問われるようになった、と考えています。

半面、表現力というかプレゼンテーションの能力は随分と長けた学生がいます。下手な教員よりもうまい、という学生もいる。これは高校教育の成果でしょう。素直に素晴らしいことだと思う反面、学生間(学校間かも?)の格差が大きすぎる。

ただし。良いプレゼンテーションをしても、その中身がスカスカということも多い。メラビアンの法則によると、好感を持ってもらうための要素としては見た目と音声で90%超、内容は7%という結果が出ていますが、まさに「好感を持ってもらう」ことだけに特化した能力のような気もしています。

さてさて。最後に今日の主張。

上の二つの状況の共通する背景として、言葉の定義があいまいなままの学生が多い。いや、学生だけではなく、大人もあいまいなまま会話をしていることが多い。学生は、そもそも論としての定義を確認していないし、大人の場合は、お互いのシニフィエがずれている(これは自省を含めて、ではあります)。言葉の定義の確認は、一昨日描いた「文脈の確認」の前に行うべきことです(コチラ 参照)。

言葉の定義をきちんと確認することさせること。それを新学期は徹底していきたい思っています。

 

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サイゴビ(横丁の隠居モード)

今朝、KO病院に並んだ時の事。

「受付待ちのサイゴビはこちらです!」

と、係員の中のお一人(30歳弱)が大声を張り上げていました、、、サイゴビ?

もちろん、最後尾 を サイゴビ と読んでいることは、明白。

無風凧は、ここで大きな疑問が、、、

同僚の係員、受付の方、医師を初めとして、どなたも「指摘」していない!

なぜ指摘をしないのでしょう?人間関係が悪くなるから?

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉があるように、指摘して直してあげる、というのが優しさだと思いますし、それをするのは上司の仕事だと思うのですが、、、もっと言えば、病院としての品格の問題でもあると思うのですが、だれも指摘・是正していない!。

これは、現代の「コミュニケーション=人間関係」が「正しくない」ことに起因するのではないかと考えています。つまり、「指摘することによって悪化する可能性」を怖がっているわけです。昔のは横丁の隠居が口を酸っぱくして、嫌われ役を買ってでも行っていたことを、現代ではだれも行おうとしてない!これは、人間関係が「正しくない」こと以外の何物でもないと言えます。

KO病院は、会計システムを刷新し、建物も新しくなり、、、ずいぶん変化しています。そのような「サービス」の向上はもちろんよいことだと思いますが、それ以前に「職員の正しさ」をお互いで指摘しあえる関係であってほしいと思います。というのも、これを敷衍して考えれば「思い込みの診察」で間違えていても、ほかの医者が指摘しない、ということの温床だから。

といっても、あの病院では無理かなあ、、、

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