ルールと公正と

NPBの白井審判の炎上が止まりません。 どこを事の発端とするかは難しいところですが、「4月24日の佐々木朗希投手への詰め寄り」が炎上の導火線だったように思います。

ネット上を見ていると。

ルール重視派: 野球は、審判が絶対に正しいのだから、そのルールには従うべき

公正さ優先派: テクノロジーが進んだのだから、審判を機会判定等にすべき。

この二つの意見で対立しているように見えます。

でも。この2つはお互いが補完関係にある、という意見は見当たりません。

野球のルールが決まった数十年前。まだビデオ撮影すら今のレベルから見ると段違いに低く、「リクエスト制度」に耐えられるものではない時代です。公正さ優先主義としても、それができない時代でした。だから、「審判を絶対正」というルールを作りました。

その意味で、上記2つの対立は対立ではなく、可能な範囲での補完関係でした。もしくは、「公正さ優先」のための「手段」としてルール絶対でした。目的は、公正なゲームを成立させる、です。

さて。

時代はすぎて。今は、公正さを確認することができるようになりました。ビデオでのリプレイ一つとってもそうです。もちろん、毎回確認していたらゲームが進まなくなる可能性はありますが、それでも技術的に可能ではあります。とすれば、ルールの変更して、より公正なゲームが成立することが可能です。

ならば。

この2つは「技術で公正さを担保するルールに変える」が正しい選択のように思います。

と言ったところで。

ここまでの話は前座です。スポーツは「公正さ」が第三者的に判断されますが(極限的には絶対評価が可能という意味です)、組織における人事評価はどうでしょうか。同じ土俵で議論することが可能でしょうか?アウト・セーフとも人事評価も、そして入試も、、、すべて「だれかの判断」です。なのが違うのでしょうか?

続きは明日。

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評価・判定

今日のプロ野球、面白いシーンがあったそうです。ロッテの佐々木投手の投球に対して、球審(白井球審)が詰め寄ったらしい(コチラ など参照)。

佐々木投手に、投球判定に対する不満があったかどうかはわかりませんが、この記事を読んで、「評価・判定」についてちょっと書く気になりました。

評価や判定は、皆様「公平である」ことが大前提であることは論を待たないと思います。そして、この公平が幻想であることも。

上述の佐々木投手の例でいえば、投球判定に不満がおきるということはあります。それに対して、感情が出ること、それを止めることはできないでしょう。アンガーマネジメントに長けている人なら抑えることが可能かもしれませんが、実際は無理でしょう。そのうえで。「判定が正しいか」という別議論があります。この点も、上述の佐々木投手の例は示しています。

感情が出たことを認めない、こと自身も、メタに考えれば、感情的になっている証左だと言えます。その時点で、審判の感情は認められていて選手の感情は認められていない、というアンバランスが起きています。

そして。投球のストライク/ボールの判定正しさは、別議論。最終的には「第三者」の判断になるのでしょうか?それとも審判が絶対正しいのでしょうか?言うまでもなく、第三者的に正しさがみとめられるか、が基準でしょう。

さて。

この野球の例を、業績評価にして考えてみます。

佐々木さん(仮名)の業績評価を、上司である白井部長(これも仮名)が行います。この結果を佐々木さんが不当だと思うこと。それは往々にしてあることです。この業績評価に対して、佐々木さんは、白井部長に「どこが業績ふそくなのか」問い合わせたとしましょう。

ここで、上述の野球の例と比定してみると。

1) 白井部長の評価は正しかったのでしょうか?

2) 問い合わせたことに対して不満を感じた白井部長は、佐々木さんの次期の査定を下げました。

一般企業に限らず、よくある構図です。1)2(に関しては、最近のTeal組織論などでは「全体評価」などという手法で改善をここ見ているようですが、一般企業では今でも「上司による判断」だけで進めます。この時点で、無風凧的には組織として「問題あり」と判断します。

繰り返しになりますが、これは「日常茶飯におこること」です。結果として、佐々木さんはモチベーションがさがり、組織としてもパフォーマンスが落ちる。これは、組織の構造的問題点です。

最後に、もう一度、今日の日本ハムーロッテ戦の例に戻りましょう。この場合、電子判定をはじめとして、「第三者的に公平な判定」ができれば、佐々木投手も納得し、不満は表さなかったでしょうし、白井球審が詰め寄ることもなかったでしょう。これは可能です。

組織においては、、、、人事評価を「公平にする」ことが上述の電子判定に比定される方法になります。その絶対的な手法は開発されていませんが、全体評価などで納得がされやすい評価方法は開発されつつあります。もっとも、それも行わずに上司査定を旧態然と行っていて、組織のパフォーマンスが下がっている、なんてことが往々にしておきています。それに気が付かない経営者がなんと多いことか。ここを改善するだけでも、日本の国力は30%くらいはアップすると思います。

 

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ビジネスモデルの記述法

新規事業企画を立案する場合、「ビジネスモデル」の記述は必須です。そのビジネスモデルの記述法、、、いろいろあります。たとえばBMCはもっとも簡単にビジネスモデルを書いていることになります。PICTも一つの記述法。Business Model Treeは少しマイナーでしょうか。ひとによっては、フローチャートで描く、という方もいるかもしれません。

どんな記述方法で記述したとしても、「言葉」で補完する部分が多いことは皆さんもご理解いただけると思います。言葉で補完する、ということは、言い換えれば「定量的な比較ができない」ことを意味しています。巷ではいまでも「ビジネスモデルビジネスモデル」とお経のように唱える方がいますが、定量的な比較すらできないということは、ある意味で驚きを禁じえません。

と言ったところで。無数凧は最近、美時根雨モデルの定量的記述について考えています。その端緒として、経営資源が人、モノ、金、情報、時間として、この5つのネットワーク構造でどこまで記述することができるか、に挑戦中。

読者の皆さんの中に、先行研究事例をご存じの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて下さい。

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ムサシノ学生服事件

都立高校の制服が、入学式に間に合わなかったムサシノ学生服事件(コチラ など参照)。約30000着の受注で、100着(0.3%)ほどの学生服が納期に間に合わなかったというもの。

納期に間に合わない、ということは企業として、あってはならないこと、ではあります。だから、ムサシノでも間に合わせるための最大限の努力をしたようです。上記記事中にも「1週間くらい寝ていないし、仮眠もしてないし、食べてないし、座っていない。」という記述があります。

ここで、ちょっと待ったあ~、です(この言葉は古いですね)。

従業員も含めて一週間も寝てない、という職場を想定してみてください。相当なブラック企業です! もちろん、従業員の方々も義務感にかられて自発的な行為だと思っていますが、しかしそれでも過労死ラインを簡単に超えるような労働環境は問題です。

ムサシノ事件は、このような側面を持っています。

更に。再発防止策を考えた場合、三方一両得な解はとても難しい。

想定を超える数の受注に対して、納期を守るようにするのは、余剰人員を確保しておくことが考えられます。こうすると、余剰人員分のコストが発生します。企業が全部かぶるとしたら、利益が減ります。利益が減らないようにするには価格を上げることですが、そうすると新入生の親御さんの支出が大きく成ります。

間に合わなかった場合に備えて「レンタル用の制服を用意しておく」というのも考え付きます。閑散期に作っておくことができます。でも、これを作るのは「余剰をつくる」ことと同じ。そのコストはどこが持つのでしょうか? また、レンタル用として制作するとしたら、保管しておく必要がありますが、その保管も費用が掛かります。それを行政や学校が費用をもつ、、、というのもあまりフェアではないように思います。

この事件。意外と根が深い問題なのです。

 

 

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2社か3社かは問題ではない(東芝問題)

来週24日、臨時株主総会が行われる東芝。形式的には(分かり易く言えば)、会社分割案が2社か3社か、ですが、本質的な問題はそこではないように思います。

無風凧が学生の頃は、東芝は超優良企業でした。以前記事でも書いたように(コチラ 参照)、応援したい企業のひとつです、、、が。2015年の決算遅延以降、そしてウエスティングハウスの暖簾問題で特に顕著になったように思いますが、迷走が続いています。

このごたごたの本質は、今表象化している2社分割か3社分割か、ではないように思います。株主と経営陣の問題でもない。これは、みずほ銀行のシステムトラブルが、技術問題ではなく、人事問題だ、といわれているのと同様です。

問題点は、(ほかの企業も同様ですが)大きく2つ。
1)実力以上に大きな組織になったこと。もしくは、組織維持の能力がなくなったこと。そして、それを維持しようとしていること。
2)株式会社という資本と執行の関係に矛盾があること。

後者2)については無風凧が申すまでもないと思いますので、今日は1)に特化します。

西室さんの時代に、飛躍的に業績を伸ばして「世界の東芝」の確固たる地位を築いたと無風凧は理解していていますが、その際に、組織体制が出来ていなかった。粉飾が行われるような成果主義とか、いう問題ではなく、Team Buildingの問題という意味での組織体制です。(もっとも、成果と体制を分離することは非常に困難ではあります)。

東芝の会長ともなると、経団連をはじめとする社外の仕事も増えてしまい、社外との「調整」が、社内の合意とは異なってくる。その調整が出来なくなった。会社の利益代表であるはずの会長が、「より広い意味での利益のために」社員の合意を取りにくい形での意思決定を行う。これだけでも、組織としては弱体化します。その上で、西室さんの場合、漏れ聞こえた範囲で恐縮ですが院政を弾いている時代が長かった。影響力たるや絶大なものがあったと言われています。組織が大きくなり、ある意味で官僚主義的になってしまったところに、ロイヤルティを下げるような意思決定が続いた、といえば、組織論っぽい言葉になるでしょうか。その影響で、2000年代の東芝は、組織としての根本が弱まってしまった分析しています。

大きくなりすぎたのだったら分割して小さくすればよい、と考えると、分割案は肯定されるように思いますが、それは正しくない。

組織の分割は、大きな会社であればあるほど「クローン」を生み出します。旧態然とした東芝のまま、表向き2つ、もしくは3つの会社に分割されるだけです。なぜかって?行動原理や意思決定の手法が変わらないからです。表面上の原理手法の変革ではなく、組織文化としての手法の変革は、組織の分割では実行できません。それなりの準備、覚悟、人材、そして計画が必要です。

今提示されている2社案や3社案を精査したわけではありませんが、「意思決定の手法が変わらない=それを決めようとしている株主総会のメンバーに変更がない」ので、結果は明々白々です。

でも。いうまでもありませんが、ここで2)が課題として挙がってきます。現行の「株式会社」では、意思決定の手法(=株主総会における多数決)を変える手段がない、のです!これは、致命的です。この部分を解決しなければ、東芝の問題は好転しないと無風凧は結論付けています。

と言ったところで、いささか長くなってきたので、今日は、ここで終わりにします。

 

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起業家とは3.

起業家、を考えるシリーズの3回目です。(1回目2回目)。

今回は、少し視点を変えて「起業を極めた人」=「起業のプロ」という仮説を立てて、考えてみます。というのも。いろいろな職業がありますが、その職業の熟達した人・極めた人は、プロとか達人とか呼ばれます。たとえば音楽。音楽に長けた人は音楽家とよばれ、さらにマエストロと呼ばれるようになります。数学に長けた人は数学家。料理のプロ、と呼ばれると、コックさんの中でも熟達した人を連想します。

そのように考えたときに、起業のプロ、とはどのような人でしょうか?起業家と起業のプロの違い、どこにあるのでしょうか?起業を極めた人、、、次々に会社を立ち上げる人?もちろん、そういう方もいらっしゃるでしょうが、皆さんが「気の多い人だな」と感じるのではないでしょうか?起業を「極める」という感じとは程遠い。

無風凧は。

起業のプロと呼ばれる人は、起業を極めた人ではない、というのが今今の結論です。起業させることの達人を、起業のプロというのだと考えます。

例えば音楽家の場合。音楽を芸術的な高みにもっていく人も音楽のプロですが、音楽家を育てる人もプロだと言えます。ゴルフは、レッスンプロという言い方があって、そのレッスンプロもゴルフのプロです。同様に、起業のプロは、起業させることのプロなら、存在しえます。

このように考えていくと、起業家と起業のプロは似て非なるもの、という結論が導かれます。読者の皆さんは如何にお考えになりますか?

 

 

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起業家とは2.

昨日の続き(コチラ 参照)。

起業家は、一つの事業や会社を立ち上げたとき、どこまでが「起業」でどこからが「社長(経営)」なのでしょうか?

ちょっと分かりにくい問いかもしれません。

例で説明します。喫茶店チェーンを立ち上げようと考えている人がいるとします。会社立ち上げ、、、それは一つの「起業」でしょう。二店舗目、三店舗目、、、チェーンが大きくなっていきます。いつの日にか、店舗を増やすことが日常化し、ルーチンワークになったとしましょう。つまいり、何も工夫しなくて(もしうは、ほんのちょっとの工夫で)店舗が増えていく。

この状態になったとき、経営=マネジメントはしていると思いますが、「起業」はしていない。その意味では、店舗増加が定常状態になるまでが起業、定常になったら社長、とみなすことができるのではないか、と考えます。

ところで。アントレプレナーと並べてよくいわれる「イントレプレナー」。社内起業家の事です。主に大企業で、それまでの事業以外の新しい事業を企業内で立ち上げるおとをする人たちです。

イントレプレナーも、やはり起業家の一端を担うことに、異論はないでしょう。では、このようなイントレプレナーを雇用してる企業もしくはその起業の経営者は、「起業家」でしょうか?気持ちとして、「新しい事業を立ち上げる」ことは忘れていないし、実践もしている。でも、ビジネスの種は自分では生み出せず、お金を出して従業員の活動をサポートする。

その社長は、今は起業家ではないように思いますが、起業家の精神(アントレプレナーシップ)は強く持っている。

このように考えていくと、やはり「起業家とは?」という基本問題に戻ってきます。

皆さんの考える起業家とは、どういう人たちの事ですか?

 

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起業家とは。

起業家、って何だと思いますか?

経営者でも社長でもなく、起業家。

起業を専門にする人、ということなら、、、、所謂スタートアップ専門の人。会社を作って会社を作って、そして、すぐに抜ける。これって、確かに「起業する人」ではありますが、大きな会社にするわけではなく、起業する人、、、なんかイメージ違いますよね。

では、町の飲食店を作る人。これって起業家って思いますか?確かに、起業になるかもしれませんが、皆さんのイメージしている企業のイメージではないと思います。なぜかというと、「新しい工夫」、ここでいう工夫は、イノベーションということになるかのですが、イノベーションがないからだと思います。

でも。20店舗くらいある飲食店チェーンを作ろうとしているなら?それはちょっとだけ起業家のイメージあるかもしれませんね。上記の町の飲食店との違いは、売上の違いでしょうか? それとも、20店舗あることで、「小さな起業」が繰り返されるからでしょうか? それとも、シュンペーターの言う5つのイノベーションの中にある「新しい地域」が加わっているからでしょうか? いずれにしても、起業家のイメージが少し出てきます。

ちょっと視点を変えて。

起業家の代表格として語られることが多いソニーのファウンダー、井深大は起業家でしょうか? 無風凧は否、と考えます。というのも、井深大は、経営者ではありましたが、東京通信工業を立ち上げる時は「雇われ社員」です(史実)。盛田昭夫が起業する際に、エンジニアとして招聘されたというのが実情。だとすれば、皆さんが起業家だと思っている人の中には、本当は起業を志したことすらない(少なくとも発起したわけではない)人が含まれています。

起業家とはなに?

これが決まらないと、起業家教育、は始まりません。

 

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起業家

とある会議の隙間時間でのネタ。

「起業家って何?」という話。

起業は、最初の一回でうまくいくと、果てはユニコーンを目ざして、企業家になる。だから、起業家であるのは一瞬(一度)だけ。だから、起業を専門にしているわけではない。

逆に、起業を繰り返すというのは、、、一般的に考えると、会社がうまく育たなかったわけだから、これも「起業のプロ」ではない。、、つまり、起業家ではないわけです。

このように考えると、スタートアップボーイのような人が最後に残ります。つまり、アイデアを出して、他人に会社を「作ってもらう」人たち。でも、これは、起業というよりは、アイデア出しの専門家ということになります。

既に使い古された感のある「起業家」という言葉、考え始めると奥が深いです。

 

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組織の定義再考

バーナードの定義を持ち出す迄もなく。

組織というのは、ある目的に向かって協力する、というのが大前提。ですから、目的を共有させることは、組織のリーダーの最も重要な役割です。リーダーの行う全ての活動は、目的共有のための活動と言い換えても過言ではありません。

勿論、組織がある程度より大きくなったら、必ずしも全員が同じ大目標を共有しているわけではありません。

しかし、黎明期の組織は、つまり、あまり大きくない組織は、全員が目的を共有することこそ、最も大切な事項です。

無風凧が存じ上げているある組織の話。リーダーがこの目的の共有をしようとしない。官僚的管理ばかり、と言う方。これでは組織は組織として成立しません。求心力がないので、単なる人の集まり。

折角優秀な人が揃っているのに、残念な話です。

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