ランキングからの解脱

米医学部ランキングに「ノー」、名門校が続々データ提供停止(コチラ 参照)

という、刺激的なタイトルの記事がアップされています。

タイトル通りで、米国の有名大学医学部が、大学ランキングに使われるデータの提供を止めた、という内容の記事です。

まず、ランキングに乗ることからの脱出を、無風凧は「ランキングからの解脱」と呼んでいます。この解脱は、仏教でいう「六道輪廻からの解脱」と同じ意味で使っています。

「ランキング」、THEやQSが行っている大学ランキングは、基本的に合成ランキングです。幾つかの指標に従って定量化し、それを足し合わせる。だから、指標にあるものの数量を上げ、無い指標は手を抜いても良い。

極端な例ですが。「外国人留学生受け入れ数」がランキングの指標に入っている場合、「外国人枠」を作ることにより、ランキングを上げることができます。ここで、外国人枠の応募する学生が優秀か否かは関係なく、「ランキングが上がる」。論文数を評価するランキングなら、質より量で論文を書くことになるから、「長期的な視点での基礎的な研究」より「すぐに論文かできるケース中心の研究」が増えることになるでしょう。こうなると、研究の質が下がっているにも関わらず、大学のランキングは上がっていきます。

このように。「ランキングの向上を目指す」ことは、その呪縛から逃れることができません。上がれば下がるのは世の常。あたかも六道輪廻のようなものです。ここにいる間は「涅槃」に行くことはできません。もうお分かりかと思いますが、ここでいう涅槃とは、「本当の意味での研究の質を上げる」。

という意味で、ランキングからの解脱は、新の実力を目指すための第一歩、なのです。

 

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社会的ランキングはいずれなくなるのか?(ランキングについて考える)

久しぶりに、ランキングについて真向からの記事です。

論理的な正しさと多数決の正しさ、この比較って難しいと考えたからです。

簡単な例で説明しましょう。無数凧の趣味の一つ、将棋で考えます。将棋は、今やトップ棋士ですらAIを参照するほど。電脳戦がなくなって公式戦がなされていませんが、藤井聡太五冠もコンピュータで研究しているということですから、私たちアマチュアでは、AI が神様に近くなっています。

将棋のAI について考えてみると。

かつてはプロ棋士のの過去の将棋、つまり棋譜をデータベースとして教師あり学習型に作られていました。しかし今は、ルールだけを教えて、人工知能で教師なしに学習した将棋プログラムの方が主流になっています。

これをランキングの考え方で翻訳してみましょう。人間のさした棋譜のデータベースに従う、というのは、社会的ランキングが用いられていることと同様。そして、機械なし学習の方は、論理に従った原始的ランキング。将棋の場合、勝つことが正しい、と定義することができますから、原始的ランキングが社会的ランキングを凌駕していることを意味しています。

論理が成立する世界であれば、社会的ランキングは正しい結果を導かない、ことを示していると言い換えても問題ありません。つまり社会的ランキングは何なくなるのか、という今回のタイトルの質問に行き付けます。

答えは否。

論理が成立する世界という言葉を間違えてはいけないということ。例えばラーメンの味は、論理的な正しさを証明することができません。社会的ランキングが絶対的な正しさを持たざるを得ないものを、AI に任せてしまうことは、厳に慎まなくてはならないと言い換えてよいでしょう。その意味では社会的ランキングは、永久になくなることはありません。

このことから。

私たちが色々な判断をする場合、民主主義では多数決で決められることが多いわけですが、論理的な正しさがあるものを多数決で求めることは誤っています。論理的な正しさがあるものなのか、社会的なランキングが正しさの源泉なのかを見極めた上で、人工知能の結果を用いなくてはなりません。将棋は AI、ラーメンは人気。このような切り分けでできることが必要なことになります。

皆さん、ランキングを正しく理解して賢く生きましょう。

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他灯明

今日は、「他灯明」という言葉を考えてみます。

先日、とある先輩が「他灯明」という話をしてくれました。その内容を一言でいえば、「現代ビジネスは、他灯明の考え方が必要」というもの。つまり、Market In する商品開発を、他灯明と言い換えたお話でした。市場が欲しがるものを「他灯」と言い換えたわけです。

無風凧は、他灯明という言葉を聞いてまったく違和感はありません。上記の使い方を聴いても、「なるほど、こういう使い方もあるのか」と納得できます。でも、ググってみても、禅語のなかにも、「他灯明」という言葉は無いようです。自灯明と対になるのは法灯明。

自灯明とは、自分の進むべき道は自分で見つけよ、自分で行先の明かりを決めよ、という意味。

その対語となるなる法灯明は、「(仏法的)真理を道しるべとして生きよ」、仏法を目指して行先を決めよ、という意味です。

そして。他灯明という言葉は無い。上述のように「世間様の示す方向を行先を定めよ」という考えは、お釈迦様は説いていない、ということだと無風凧は考えます。

このように考えると。

現在のビジネス、特にマーケティングというものは、何れも仏教の悟りとは矛盾していることに気が付いてくれることと思います。市場が心理を示しているわけではない以上、法灯になりえません。だから、法灯明にはなりえない。ランキングは、市場=他灯の表現の一つです。私たちが「生きていく方向」を示してくれているわけではありません。つまり、「ランキングには騙されるな」。

聊か筆が滑ったところはありますが、今日は他灯明と言葉を皮切りに、ランキングまで論じてみました。

 

 

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内申書の高校間格差(ランキングについて考える)

こういう記事を見ました。

「新たな成績評価に「おかしい」と疑問の声…高校間の内申“格差”で大学受験が不公平になるという衝撃(コチラ 参照)。」

内容は、タイトルから想定される範囲で十分です。このタイトルから、ランキングについて考えてみます。

まずは、簡単。身長のランキングです。

10歳の5人と10歳の5人。この10人を身長順に並べてみるとどうなるでしょうか。おそらく高い方から5人が10歳で低い方から5人が5歳ということになるでしょう(もしかしたら一人くらい入れ替わるかもしれませんが)。上から8人えらぶということになると、ほぼ間違いなく5歳の下から2人が選ばれない。という結果になります。

では、10歳の5人を身長順にならべ、5歳の5人を身長順に並べる。そして、順位をみていくことにしましょう。10歳から一人、5歳から一人、選ばれないことになります。

この例で言いたいことは、「母集団の性質が変われば、どういつ評価は行われない」ということ。

内申書ベースの大学受験は、上述の「身長」の例と同じようなことが起きます。だからと言って、「母集団の性質」を考慮したとしても、その手法が問題になりますし、「母集団ランキング」で本当のランキングとの齟齬が生じることがあります。後者は「学歴フィルター」と呼ばれているものの一つの変形ですね。

公平な評価。絶対に実現できません。だから、試験をする方は、「最大多数が不公平感を感じにくい手法」を提供するしかないのです。無風凧のランキング理論を学習して、少しでも「不公平感を感じさせない」評価をしてほしいものです。

 

 

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尼崎市長選挙の結果考

さて昨日の続き。尼崎市長選挙の結果です。

7月の参院選で勝った維新。その維新の候補.が落選した、というのが多きなトピックでしょう。そして、維新の本拠地は大阪ですが、その隣の市である尼崎で負けたというとは、Opinion の拡散効果が薄れている、ということです。

代表の馬場さんは、「次の統一地方選で600人」と公言しています。大きな目標を持つことは悪いことではありません。否、望まれることでしょう。しかし、ここで大きな問題があります。

「出る杭は打たれる」。無風凧の提唱している「ランキング理論(社会学的ランキングの動理論)」によれば、ランキングは「オーバーシュートする」のですが、まさに「出る杭は打たれる」でしょう。

維新の会は、確かに勢いもありますし、いま、ランキングが伸びているところでしょう。しかし、600人を目指すこと自体が「オーバーシュート」に相当すると、無風凧は分析しています。来年の国政選挙の時点で400~450人程度が「質実剛健」に規模を大きくしていく場合の最適値だと考えます。

このことの証左は。参院選で中条きよし氏を擁立し、見事当選しました。中条氏の集票力は大きなものがあったと思います。しかし、国民視線で考えれば、いわゆる「タレント議員」に見えている。国会の発言で、自分のCDを紹介したりコンサートの話をしたりするのは、個人の資質・常識の問題であり、党の責任とは思いませんが、「急激な規模拡大のための宣伝戦略」と捉えられます。堅実な「拡大」をしていない。その結果、「オーバーシュート」を起こすものと考えます。オーバーシュートすると、必ず反動があります。反動の結果で、解党、という結果になるリスクも考えなくてはなりません。発展的解党は否定するものではありませんが、オーバーシュートによる解党は、失敗の結果です。

民主主義(というよりは、選挙主義)において、集票がすべてを決めることは言うまでもありません。これを変えることは、無風凧の生きている間には無理でしょう。だからこそ、地道に規模を大きくすることにより、最終的な「地位の逆転」を行うしかありません。

尼崎市長選挙を戒めとして、戦略の立て直しを考えてみてはいかがでしょうか?

追伸: ここでも、昨日の話の続きになりますが、「自分の目の黒いうちに」ということを考える「長老」が跋扈してはいけません。馬場さんはまだ58歳、ですが、65歳で引退するつもりで、それまでの「長期戦略」を立てることをお勧めます。

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TIMES HIGHER EDUCATION 大学ランキング

今年のTHEのランキングが発表になりました(コチラ 参照)。トップは7年連続で英オックスフォード大学でした。日本の東大は、昨年の35位から順位を下げて39位でした。

毎年発表されるTHEの大学ランキング。もちろん、意味を正しく理解して内容を把握したうえで参考にすることに、無風凧は異論はありません。でも雑誌記事やネット記事になると、「大学ランキング」という言葉だけが先走りしてしまい、どのような評価を行った大学ランキングなのかがないがしろにされてしまいます。その点を強く指摘したい、というのが無風凧の主張です。

参考までに、以下の3点を挙げます、「THEのランキングの内容」を一度、吟味してみませんか?

1) THE Japanは、本国(英国)とは異なるランキングを発表しています。本国の結果で、国内の大学は、東大-京大ー東北大がトップ3。でもTHE Japanの結果は、東北大-東大ー(阪大、東工大)です。なぜ異なるのでしょうか?

2) なぜ、7年も連続で英国が首位なのか? しかも、「細かく指標の寄与率を変えているにも関わらず」にです。

3) THEのランキング発表をすることで、得をするのはだれか?(THEは、ビジネスとして何を得ようとしているのか?)

ランキング上位を目指すことは悪いことではありません。しかし、今一度のその意味を考えてみて下さい。

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Fランは名誉棄損か?

面白い記事を発見しました(コチラ 参照)。大学を、SランクからFランク、もしくはGランクまでにランキングするのは、今はもう見慣れた風景です。上記記事によると、「Fランとつけること自体に、名誉棄損や営業妨害などの可能性がある」ということだそうです。

たしかに。Fラン=偏差値低い、というコンセンサスがあるように思いますから、Fランに「ランキング」されること自体が名誉棄損だと感じる人もいることは否めません。少なくとも、その大学の経営者にしてみれば、「Fランと呼ばれるようになったから学生募集がうまくいかなかくなった」と営業妨害を主張したくなる気持ちも良く判ります。

でも。これを言い始めると、将棋の順位戦のクラス分けも同様でしょう。かつてA級で指していた棋士にとって、B1、B2と言われることは事実であるにしてもなかなか受け入れがたいものであることは容易に想定できます。

相撲も同じです、、、幕内から序二段まで降級すると、随分不名誉な言われ方をするでしょう。

ただ、将棋も相撲も、名誉棄損だ営業妨害だ、という話は聞きません。なぜでしょうか?

無風凧の結論は。

評価軸がもともと存在していて、もしくはほかの要因で決定されている場合は、甘受できる。つまり、原始ランキング(PR)がある場合は、名誉棄損や営業妨害とは言われない。でも、多数決で決められるランキングの場合、、、つまり、SRの場合は、名誉棄損だなんだと言われる。

大学の格付けは、偏差値で決まっているように皆さん思っているのかもしれませんが、逆説的に「SR」が主軸であり、偏差値によるに見えることは「たまたま」の現象だということだと結論できます。(ちょっと舌足らずな表現)。

 

 

 

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食べログの計算式

驚きのニュースが入ってきました(コチラ 参照)。

ニュースによると,食べログの計算式が変わったことにより、評価の点数が下落。そのために売り上げが下がった飲食店が損害賠償を請求。なんとその飲食店が勝訴したのです。

つまり、食べログランキングの手法を変えることが、違法という判断がなされたわけです。

この判断は正しいのでしょうか。無風凧は、否と答えます。

食べログは、なぜ、計算方法を変えたのでしょうか。それは、自分のページの読者を増やすため。言い換えれば、より与論に従った計算を行うためです。ですから、食べログとしては、より正しい判断基準を作った、という立場になります。

この行為を否定してしまうと、食べログは読者が減っても評価方法を変えることができないということになります。これは、自由競争の社会の中で著しい違法行為だと言えます。

食べログの点数以外、例えば大学ランキングを決めるTHE もQSも、時代に合わせてその評価方法を変えます。同様に、食べログも評価方法を変えることは自然の理と言えます。

このような視点に立つと、裁判結果は不当である、と結論できます。

追伸。裁判所の判決理由は、優位的地位の濫用による独占禁止法違反だったようです。これを独占禁止法違反だと言うのであれば、大学入試も、就職試験も、全て独占禁止法違反ということになります。なぜかって?そもそも計算をしてるのは一社しかないからです。

 

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文学賞とミスキャンの線引き(ランキングについて考える)

ここ数年、LGBTq活動の活発化に伴い、ミスキャン(ミス・キャンパスコンテスト)の存在について、色々な(主には批判的な)意見が多くなっています。中止や廃止の議論だけでなく、水着審査を止める、ミスターコンテストを併設するようにする、など色々あるようです。

立命館大学の学生が、ミスキャンの存在に疑問を頂いて調査した記事があります(コチラ 参照)。要点をまとめると、、、なぜ行うかの理由が分からない、特に黎明期については語られない、、、、ということです。ということで、ここから先は、無風凧の「ランキング理論」で考察をしていきましょう。

ランキングとは何か?

一言でいえば、無から有を生む打出の小槌です。無価値の物(ヒト、サービス、なんでも良い)が、ある日突然価値を持ちます。一般的には、経済価値があるという意味の価値ですが、時々逆もあります。

簡単に言えば。芥川賞を取る前の小説家の原稿用紙当たりの執筆料は1000円。賞を取ったら5000円になる。という図式。本屋においては、賞を取る前は10冊も売れれば御の字だった小説が、賞をとったら1000冊売れる。そのような意味の打出の小槌です(価格や冊数は根拠ありません。分かり易くするための工夫です)。

加えると。「直木賞・芥川賞は、菊池寛が、雑誌の売れないニッパチ対策として、つくったものだ」という言説が、本人の減であったjか別にしてそのような考えを持っている(認めている)ことが証左です。

これが、ランキング、もしくはコンテストの本質です。主催者は、ランキングが持つ「波及力(Propagationの力)」を使って、金銭的な価値を生み出すために、ランキング(コンテスト)を行います。この仕組みは、音楽のショパンコンクールも美術の日展も変わりません。(注: 価値の中に、金銭的価値以外の個別の理由を持っている場合もあります。しかし、礼としては稀なので、以下でが金銭的価値と置き換えておきますが、適宜、色々な価値に読み替えてください。)

そして。参加者も、この仕組みを使って「自分を世の中に出す=価値があるものにする」ためにコンテストに応募・参加します。

その視点でもう一度ミスキャンを見直してみると。

少なくとも主催者と参加者には「価値」があり、その利害が一致しています。ミスキャンで一番になることで、就職に有利になる、とか彼氏に認めてもらえるとか、色々あるでしょう。アルバイトに応募する際「採用率が上がる」というのも立派な価値です。

主催者は、その意味では「価値を生み出すこと」に価値を見出しているというのが大前提?かもしれませんが、そのうちに、ミスキャンの開催スポンサーが集まってくるようになると、金銭的にも同気付けがなされるようになっていきます。

では。ミスキャンを開催しようと主催者が思い立ったが、参加者がいない場合はどうするでしょうか?そう。参加してくれる人をまずは「金銭的なインセンティブ」で釣るのが一番早い。では、ミスキャンの優勝者になりたい人がいてコンテストが無い場合は?菊池寛のようにコンテストを作ってしまえばよいのです。いずれにしても、いきなり大きなコンテストではないかもしれませんが、実行は可能です。

本日の最後。文学賞とミスキャンの線引きはどこか?言い換えれば、文学賞バッシングは起きないのに、ミスキャンバッシングが起きるのはなぜか? それは、純粋にLGBTqの流れです。価値を作り出すことが、男女差別もしくは「男性像・女性像の画一化」を助長するものだと感がている人が多くなってきたので、バッシングが起きています。それに加えて、人口に膾炙することが多いからでしょうか。ノーベル文学賞よりもミスキャンの方が興味を持つ人が多い、ということかもしれません。ただ、、、かつて焚書事件があったように文学もいつも安泰という訳ではありません。文学賞もいつ、「その存在が」否定されるかわからない。例えば、「表現の自由は憲法によって守られている事項であり、その自由を、コンテストの形で優劣をつけるのは憲法違反だ」という主張が主流になれば、文学賞自体がなくなる可能性があります。屁理屈に見えるかもしれませんが、世の中の常識、なんてものは、その程度の物です。

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聖隷クリストファー落選(ランキングについて考える)

今年のセンバツ甲子園。出場校が発表されましたが、少し事件です(コチラ 参照)。

事件とは、、、東海地区で準優勝だった聖隷クリストファーが落選し、準決勝で配線した大垣日大が当選しました。慣例として優勝校と準優勝校が代表になっていたから、事件です。

これは。。。2つの意味で問題があります。

一つは。

トーナメントの「本質」を誤解している人が多いこと。トーナメントは、優勝校が理論上一番強かったことは証明できますが、準優勝校が二番目に強いことは何の保証もないのです。だから、準優勝=2番 という前提にたった選抜法事態に問題があることになります。

二つ目は。

無風凧のランキング理論でいう「多数の軸の合成方法」。今回、センバツの選考委員から「(日大大垣の)個人の力が上回った」という発言がありました。個人の力量が選抜方法の「軸」であるならば、ゲームの必要性は低く成ります。また、チームプレーとしてのサインプレーや、犠打などというのは、評価されなくなってしまうでしょう、、、各選手が、勝手に力量をアピールするのは、野球というゲームではなくなってしまいます。チームの存在、自体を否定している発言です。

当いことで。ランキング論的には、ネット民とは少し違った立場で、「納得できない」事件です。

 

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