埼玉陥没事故

発生から、もう一週間が経ってしまいました、埼玉の道路陥没事故。

被害にあったトラック運転手のご家族の心痛は、想像すらできないほど大きなものでしょう。一刻も早い救出を心からお祈りています。

さて。

これを教訓に、日本中の上下水道設備の安全性確認が叫ばれています。上下水道以外にも、トンネル、道路、橋、歩道橋、鉄道、電柱、ビル建物、など、高度成長期(一応1973年までとされています)における建築物の安全性確認は、必要な時期に来ているのかもしれません。

ということで、試しに、杖で道路をトントン、と叩いてみます(わざわざ叩かなくても、杖を突いていたら自然と耳で判断できます)。橋の上と地面の上では当然音が違います。

所で、道路に戻ってアスファルトの上からだと、以外の下の音が分かりづらい。アスファルトが砂利の複合体だからでしょうか?無風凧の耳が遠くなったから、ではないと思います。

という与太話は横において。

セメント、銅、鉄、、、、など建築素材の耐用年数のみでなく、使用環境によって、その劣化は異なります。いきなり全部のチェックは無理でも、少しづつ、、、ただし、事故が起きる前に、、、、それが、公企業である「政治」のひとつであると無風凧は考えます。

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七草粥セット

物価高もここまで、、、、数年前まで、198円で七草粥用のセットは売られていました。

今年は、、、なんと498円。

日本のGDPを上げる、という意味では、確かにGDPは上がる効果はあるでしょう。なんせ「付加価値」が付いていますからね。でも、これが「国民の生活」を救う方向に向かっているとは、ちょっと考えられません。

日本の国際経常収支は、20兆円の黒字です。簡単に言えば、一人20万円ずつ、国(というか、国際企業等)が留保している、ということ。つまり、富の再分配が上手くなされていないことは自明です。

胃には優しい七草粥、庶民の懐には優しくないようです。

追伸: 拙宅は、ことしは「洋風七草粥」にしました。

せりなずな、、、、ではなく、ピーマン、ニンジン、玉ねぎ、、、、

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ベストセラー

年末年始、図書館で所謂「ベストセラービジネス本」と呼ばれるビジネス本を借りて、乱読。

其々に良いことは貝いているな、とは思うのだけど、「ベストセラー」ということになると、異を唱えたくなります。

ビジネスの世界で成功した人の自叙伝は、その人の人生を「追体験」するという意味では(いささかの誇張はあるだろうとは予想しますが)まだ読んでいて価値があるような気がします。

しかし、所謂「ノウハウ本」に近い物、、、具体的な書名は割愛しますが、、、は、百害あって一利なし、という物が多い。人気作家の推理小説と同じ程度の気持ちで読むのなら問題ないが、「これこそビジネス必勝の教科書」みたいなものは、読むに堪えない物が多い。

自分の希望を書いているに過ぎない本があまりに多い。AとBを合せればCになる(はずだ)、という本を何冊も読んで、無風凧としては暗澹たる思い。結局、人気投票の変形で売り上げが決まっているだけで、実際のビジネスに役立つ本は皆無、とまでは言いませんが、皆無に近い。

著者の所属する大学や企業の名前、政府の〇〇委員会の名前、そしてTV番組の名前、、、を始めとした伝播力と人気投票の結果が、ベストセラーになっている、という感じでしょう。

昔。西田幾多郎の「善の研究」がベストセラーになったことがある、と訊いた記憶があります(真偽は不明)。そういう良書がベストセラー本として復権する日は、もう来ないのでしょうか?

# 今回は、文体が変ですね、、、お許し下さい。

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已己巳己

みなさま

新年のご挨拶を申し上げます。

2025年が皆様にとってよりよい一年になる事をお祈りしています。

2025年 元旦

無風凧

已己巳己という言葉があります。いこみき、と読みます。意味は、「大同小異」とか「どんぐりのせいくらべ」とかいう感じでしょうか。似ていて違いが判らない、という意味です。

無風凧は無風凧らしく、無風凧さんの仕事は已己巳己だね と言われない一年にしたいな、と思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

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日本は法治国家か?

一昨日の記事から繋がっているのですが。

日本は本質的な意味で法治国家、と言えるでしょうか。それとも、イギリスのような、Common Lawの国でしょうか?もしくは独裁国家?

無風凧の周りを見てみても、法律的な解決ではなく、その場の雰囲気で流れてしまうという決定がなされてしまうことは非常に多い。いや、法的にはこうでしょう、という提案に対しても、上下関係や雇用関係に従い、法律による解決には至らないことが多い。

さらには、昨今のDX化と称する省力化。機械は決めた動作しか行うことができませんが、それが絶対となってしまい、商法の条文なんてクソくらいという店舗は増えている。これを説明するとクレーマーと言われかねません。 

また、法律違反を覚悟の上で行う炎上商法。例えば、先日の兵庫県知事選挙における立花氏の立候補は、それに相当するでしょう。

昨日のムスリムの土葬問題。これも一度は解決して、憲法上問題がない策で合意ができていたのですが、「法治国家」であることを盾に、憲法と矛盾する法律で、ご破算になりそうです。 

さらには、 法律違反(刑法の上の 現行犯)が目の前で行われていても、 警察官によっては、 あてがわれた その場での役割が違うという理由で、逮捕に動こうとしない、ということもあります( 多度大社の 上馬神事、メルズーガ事件)。

このように考えると。 日本は本当に 法治国家 なのでしょうか? 無風凧は不思議でなりません。

追伸: 上記とは全く関係のない話ですが、モルモン教徒を名乗っていたしていた女優の斉藤由貴さんが離婚しましたね。これは驚きました。モルモン教は、離婚は許されない、と理解していましたから。

 

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クリスマス・イブ

今日はクリスマスイブ。キリスト様の誕生日を祝う前夜です。

日本は、もともと、多宗教国家だったと考えています(歴史学的にどれが正しいのかは、色々な学説があってしていないと思っています)。仏教が入ってくる前の神様は、八百万の神様。そして色々な神様同士が諍いを起こすことが、人間の世界では家(氏)の戦いだったのが、2~3世紀から奈良時代以前の話。この神様の一つとして入ってきたのが、仏教。仏教を背負った「聖徳太子(今はその実在も疑われていますが)」が、日本の国家統一を成し遂げた、と大まかに考えています。

その後、戦国時代にはキリスト教も入ってきました。当初は耶蘇教と言われていました。南蛮貿易の影響もあり、耶蘇教は日本で受容されました。儒教も江戸時代には入ってきています。

このように日本は、色々な宗教を「矢をよろずの神の一人(一柱)」として受け入れる風土があったと考えています。

しかし。なぜだかイスラム教だけなかなか受け入れられていないような感じがあります。というのも、イスラム教の教えに従って、在日ムスリムが作ろうとしている「土葬墓地」は、なかなか実現しません(大分県日出町のムスリム墓地問題)。郷に入れては郷に従え、という日本の「和=世間様」発想の発露で、日本は火葬だというのが、住民の根底の考え方かもしれません。

いずれにしても、八百万の神の時代から他宗教に寛容だった日本、今回の問題だけはなかなか解決しそうにありません。

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アントレプレナー教育

アントレプレナー教育という言葉も、そろそろ多義性を持ち始めているな、と感じると同時に、内在的な自己矛盾を解決できていないまま使っているな、という感じがします。

アントレプレナー教育、といった時に、「起業教育・ベンチャー育成」と置き換える人もいるし「問題発見・解決能力」とする人もいるでしょう。それ以前に「やる気教育だ」と考えてる人も少なくないようです。

これらの定義=目的に合わせて、教育を行わなければ、成果を上げることはできません。

その上で。企業教育ベンチャー育成に限って話をしてみましょう。この言葉は、実は内在的に自己矛盾を孕んでいます。ベンチャーが大きくなる=フォロワーが増える、と言ってお分かりいただけますでしょうか。つまり、船頭多くして船山登る、の状態にならないようにするためには、リーダー=起業家=アントレプレナーは、選ばれし数人ということになります。

教育の目的が、あまねぐ受講者に対して、ということであればそもそも教育に適していないわけです。その意味では、アントレプレナー教育をする時には抱き合わせとして、フォロワー教育、なるものが必要になってくることを意味しています。

そして。アントレプレナー教育を評価することを考えてみましょう。評価するためには、何らかの評価軸が必要です。評価軸に合わせる=独自性がなくなる、という等式はすぐに思いつきます。

このように考えると、アントレプレナー教育ももう一度1から考え直すべき時期に来ているのではないか、と考えている無風凧です。

ちなみに、無風凧も、アントレプレナー教育を看板にする一人です。でも、その手法は、他の方から見たら随分「教育っぽくない」と思われるようです。

(蛇足)とある「アントレプレナー教育」のシラバスをみて絶望した、ことがこの記事を書くきっかけになりました。

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熊は害獣か?

「お前の所に熊をおくる」(コチラ など参照)。

年々、東北地方での熊被害が増えています。熊は可愛いもの、というのはディズニー映画の「クマのプーさん」の影響でしょうか。だから、クマを殺処分するとなると、全国から「かわいそう」という非難が、各行政に届くそうです。

冒頭の言葉は、それに対する秋田県知事佐竹さんの発言です。確かにクマが送られてきたら困る、ということでしょう。避難は止まるのだそうです。

地域に住んでいる人にとってみれば、クマから受ける害は、相当大きいようです。人的被害も毎年あります。

ここで無風凧は思うのです。人に害があること、が自然な姿なのではないか、と。このような発言をすると、無風凧は変人だと思う方も多いかもしれませんが、自然の食物連鎖の中で、ヒトだけが特別な存在ではありません。肉食獣において、力の強いものが弱いものを捕獲する。これが自然な姿。

弱いものは逃げる、避ける、という動作を取るのが動物一般の行動様式です。だから、山には近づかない。江戸時代には、当然であったことが、最近は守られなくなった。言い換えれば、人間が少し傲慢になってきたのではないかと無風だとは考えます。

もし、逃げたり避けたりできない場合は、近づけないようにする、という工夫もあるでしょう。海外では、電流柵を作るなどの方法で対処しているところがあるそうです。そういえば、山登りする時も、鈴をつけると熊が来ない、という話があるので、音を出して近づけないようにすることで、共生することは可能になる可能性が高いようです。

それでも、という場合hあ、反撃するというのもありでしょう。反撃の一つには殺処分もあるかもしれませんし、森に返すというようなこともできるのかもしれません。しかしそれも、場合による。つまり最終的には地域で決めるべきことであって、アメリカのアニメ映画に影響されて、他地方の人が強く言うことではない、と無風凧は考えます。

宇宙船地球号の乗組員として、「共生する」ことを大事に考え、そのための最善の施策を打てれば良いなと考えています。

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役職定年問題

とっても寂しい、そして憤りすら感じる記事を読みました(コチラ 参照)。記事によると、企業における役職定年制が、廃止される方向だ、とのことです。

役職定年制。後進に道を譲るためにポストを開けるという制度です。ある意味では、若いものを育てるという意味もあるでしょう。また、高齢化社会においては、ベストパフォーマンスを出せる年齢を主力とした組織体制作りのためにも必要なことだと考えています。

しかし。

上記記事のようにこの役職定年制を廃止する企業が増えているようです。この高齢化社会、どんどん、役職が上ずっています。もちろん少子化の影響もあるのかもしれませんが、逆に、高齢化によって役職年齢が上がったことにより、若年者への給与・権限などが減り、結果として、未婚率が増え少子化につながる、というストーリーも考えられます。

企業に限らず。政党や、その他ほとんどの団体で、高齢化が進んでいます。この年になってまだやらなきゃならんのか、という高齢者の愚痴が聞こえてくる場合もあります。しかし、そう言っている人のほとんどは、下がいても下はまだ育っていない、というのが理由で自分が頑張ってしまいます。

話を冒頭に戻して。役職定年の1つの問題は、青天井になる給与の問題。つまり役職手当の問題です。役職者にとっては、給与が減ることになりますから大問題です。だったら、この部分を切り離してみてはいかがでしょうか。

結局、年功序列が残るかもしれません。もしくは実績が一度あればあとは下がらない、というコスト高になるかもしれません。でもお金の問題だけなら、解決する手段はあります。

GDP がドイツに抜かれ4位に落ちた今、国力を戻すために何をしなくてはいけないのか。それを考えた時に役職定年制が廃止される方向というのは、憤りすら感じます。

追伸:経営者が高齢者の場合、話が合う人が高齢者に多くいることになります。結局、その意味では経済人仮説(つまり自分の知りうる範囲における最適解を求めること)は生きているように感じます。

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数学の学力

最近、X(旧 Twitter)を見ていると、共通テストの数学の問題が長文化しているという話で盛り上がっていました。いわく、

「問題を読む時間が長く、数学の実力を問う問題ではない。」

でも無風凧は思うのです。単純な計算問題であるならいざ知らず、実際の社会で数学もしくは数理的な現象に立ち向かう時、まず問題を正確に記述できなければなりません。U.エーコは、「理論化できないことは物語られなければならない」と、その著書の帯で書いてますが、まさにその通りで、まず解きたい問題を文章化する力が必要。そしてその文章を書くには、読解する力が必要であることは言うまでもありません。

そのように考えると。社会に出て通用するための数学の学力は、国語の力も込みで測られるのが正しいような気がするのです。

もちろん、「コーシーの定理を証明せよ」のような、純粋に数学の問題も嫌いではありませんが、これこそ、記憶や経験によって、解けるか解けないかの差が大きく出ます。通学の力のみ、ではないものを測定していることになります。

その意味で。「計算問題だけ」「経験の有無によって差が出る問題」から脱却し、問題把握能力を問うようになった昨今の共通テストの数学の問題は、適しているのではないかと、無風凧は考えます。

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