プレゼンテーション力はコミュニケーション力?それとも幻惑力?

これは究極の二択だと思います。プレゼンテーション能力は、コミュニケーション力でしょうか、それとも幻惑術でしょうか。

日本維新の会が、議員のスピーチ力向上に1人50万円の予算をかけたという報道がありました(コチラ 参照)。スピーチ力向上自身に課題があると思いません。それどころか、分かりやすい話をすることは、な重要なことの一つだと考えます。

しかしここで無風会は2つの疑問を提起します。

1)ヒットラーへの例を見るまでもなく、行き過ぎたプレゼンテーション能力は幻惑術もしくは先導を促してしまう。これは正しい意見の主張と言えるのだろうか?

2)そもそも論ではありますが、順番が逆のような気がします。運転免許を取るためには、教習所に通い、免許試験を受けて合格し、そして運転ができるようになります。これと同じように考えれば、議員の素養として、プレゼンテーション能力は必須事項の一つ、言い換えれば免許のようなものではないでしょうか。

このように考えると、能力補足を目的としたプレゼンテーション能力の向上を目指すことの是非が問われる、と無風凧は主張します。(勿論、プレゼンテーション力の向上は、日々の努力も必要ですから、合格点に達している人も、日々努力しなくてはなりませんね)。

追伸:
プレゼンテーション能力は「場数」に比例します。頭で考えるのではなくて、いかにたくさんの場面を経験したかによって変わります。座学で、そして教室で勉強できるものではありません。これは、コミュニケーションを担当する教員の実感です。

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なぜ都道府県知事は国会で発言する機会が無いのか?

解散風が吹き荒れている中、全国知事会という組織が、どういう組織なんだろう、と疑問に思いました。というのも、各都道府県代表の首長さんは、国会に発言の場がないわけです。なぜでしょう?

歴史的経緯を考えれば、理解できます。首長さんはもともと国から派遣された県令。だから国の言うことを県民に伝えるための存在ですから、国会に参加して国の方向性を決める必要はないわけです。

しかし、それは明治時代の話。今は、地方の意見をまとめる都道府県政治のトップです。その首長さんに国会で発言機会がなくて、果たして日本は民主主義な決定ができるのでしょうか?無風凧にとっては大いに疑問です。

一昔前、参議院は都道府県知事で構成されるようにしよう、という流れがあったように記憶しますが、それはどうなったのでしょうか?本来的には首長さんこそ衆院議員として活躍すべきなんではないかなという気もしますが。

このように考えると、明治維新の時に作った議会民主主義の弊害が今の日本をゆがめて居るのではないか、そのように思えてなりません。

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非正規教員の問題

近、教員のブラック職場問題や非正規教員の過酷な労働環境が課題になっています。これは、日本の技術力生産力そして経済力の根幹となる教育の問題ですからゆゆしき問題です。

でも。一般企業における経営問題として捉えた時、問題は2点に集中されるのではないかと考えられます。

1つは、組織として余力を持つ体力があるかどうか。つまり、欠員が出た時の対策として余剰人員を抱えておくだけの経済的な余力があるかどうかという課題です。非正規教員の問題は、まさにこれでしょう。もっとも、余力を持った運営をしていると、もっとコストカットができる、と叩かれることも、一般企業と同じ。

2つ目は、労働市場問題と関係があります。日本は労働流動性が低いと言われています。つまり、転職が難しい。色々な職業において資格や免許などが必要になっている。脅威になるのも教員免許のようなものが必要です。もちろん教育の質を保つために何らかの縛りは必要でしょう。しかしそのために、適材適所ができない、という現象が起きています。例えば。部活のブラック問題も、このルールのために解決が困難になっています。プロ野球の選手の引退後のセカンドライフとして、中学や高校の野球部のコーチをする。しかも、それを正規教員として行う。このようにすれば解決できます。しかし、現実は教職を持っていないということで、臨時任用。給料も安い。ということで1つ目の問題に戻っていきます。

予算の問題が絡むのは当然ですが、有力を持つことと専門性のある人のセカンドライフを使うこと、これで問題の80%程度は解決するのではないでしょうか。

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兼職できるけど給料二重払いはできない?

国会議員の公設秘書を市議会議員が行う。

皆さんはどのように感じますか?実際は、「行われている(要届け出)」「給与の二重受け取りは許されない」のだそうです。

今回、やり玉に挙がった大阪10区に池下さんの秘書の場合、池下さんによると「秘書の役と市議の役をキチンとこなしていた」とのことです(コチラ など参照)。

無風凧は、この報道に対して、発狂しそうなほど(笑)悩んでいます。

1) 所謂週40時間労働を考えた場合、80時間労働ができていたのだろうか?(勿論、時間給労働者でないことは理解の上。しかし、それであればなおの事、80時間以上仕事をしていた可能性が高い)。

2) 上記労働時間は、圧倒的に「労働基準法」の業務時間を越えているけど、大丈夫だったのだろうか?

3) 国会議員と市会議員は場合によって、「泥棒と警察」のように攻守の状態になります。その際に、どのような仕事をしていたのだろうか。療法にGoodな解が出てたのだとすれば、そもそも国会はその案を用いればよいわけです。

4) 労働に対して、対価を支払わなくてよい、という法律が存在して良いのだろうか? 届け出が整理いつした時点で、二重受け取り可であるべきではないだろうか?

5) 収支報告書をみて、2年間も気が付かない物だろうか? (税理士もしくは会計士にも責任あるかも?)

などなど、大変です。

利害関係が相反する場合が考えられる兼職が認められる、というだけでも、10㎏は痩せそうなくらい、悩みます。こんなこと悩むから、聴覚過敏が進むのかなあ、、、

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謝らなくてよいから、理由を説明してください。

国会答弁などがその嚆矢ですが、最近の人の会話は、言葉のキャッチボールができていません。

判り易い例は、「なぜ、ですか?」「ごめんなさい」のパターン。

危機管理工学の立場では、まず相手(被害を受けた人)を落ち着かせるための処方として「ごめんなさい」なのでしょうが、火に油を注ぐか場合もあります。少なくとも、日本語として会話は成立していませんから、「コミュニケーション」を教える教員としては、果たしてこれが正解なのか、迷ってしまいます。「誤らなくてよいから、理由を説明してください」とお願いしますが、最近は、「ごめんなさい」以外が返ってきた験しはありません。日本人のコミュニケーション能力が下がってしまった証左でしょうか。

それ以上に不思議な言葉は、「責任とります」でしょうか。

では、「どのような責任を取るんですか?」と質問してみて下さい。十中八九、何も考えていないか、精神論を述べるか、に終始します。

「この人は責任という言葉を理解していないのだなあ」、、、と無風凧は理解することにしています。そうそう、その面白い例は、菅元首相のポスターにあります。「未来に責任」。菅さんの好きな言葉なのでしょう。でも、無風凧は思うのです。菅さん、どんな責任をとりますか?まして、未来に起きることに対する責任。何を指しているのでしょう?菅さん、そんな大見え切ってよいですか?

日本語がどんどん壊れていってる、そのように感じている無風凧です。

 

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盛山さん、名案ありますよ!

新文部科学大臣の盛山さんが、教員不足解消の名案がない、と言ってますね(コチラ 参照)。

不詳無風凧、名案(と自分でいうのはおこがましいですが)持っています。

・教員不足解消

・日本全体の学力をあげる

・教育予算も下がる

・GDPも上がる

・(役人の天下り先も増やせるかもしれない?(笑))

如何でしょう?無風凧に連絡してみませんか? 数字はまだ作っていませんが、ビジネスモデルとしては出来上がっています。

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初動専門の第三者委員会法人、の提案。

日大の第三者委員会報告、期日までに間に合わずに延期願をだしました(コチラ など参照)。

調査量が膨大、なのは理解できるとしても、出来た時点までの情報開示もしない、というのは社会常識に鑑みて非常に違和感を覚えます。また、上記記事によると文科省も容認の方向ですから、「同じ穴の狢、、、」と思ってしまいます。

警察に機動捜査隊があるように、「初動」は大切。解釈や説明・言い訳以前に「事実を報告」するだけの調査部隊があっても良いのではないかと思うのです。

今回の日大の場合は、最初の「パケ」がみつかってから、既に2か月以上。初動も何もあったものではないかもしれません。ですから、改めてここで提案です。

初動専門の第三者委員会法人、の設立を提案します。

メンバーは、勿論調査対象に利害関係が無い人であることは当然として、一般人が良いと思います。井戸端会議好きの方々、なんかも良いかもしれません。「事実に対して何それ?」って切り込んで話を膨らませる(捜査の範囲を広げるとともに継続する)ことができることが肝要。ジャーナリストやメディアも適任。そして、日報形式で公表していく。

日大の件を「日大が選ぶ第三者委員会」は、(本人たちにそのつもりはないのは当たり前ですが)世論的には日大に対する忖度があるだろうな、と思い込んでしまいます。李下に冠を正さず。だから、まったく関係のない人で作られた組織が必要になるわけです。

この組織。無風凧なら喜んでメンバーを引き受けます。

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改造岸田内閣へのレポート課題

昨日、改造岸田内閣が発足しました。

ネット上では、「ドリル小渕」がバズっているようです。(証拠隠滅って、あの状況なら犯罪だと思っていましたが、、、閣僚に復活です)

さて。今日のネタはココから。

抜き打ちレポート課題の提出。新閣僚は、下記テーマのレポートを提出して下さい。

「生成系AIを利用する事の国政への悪影響 とその根拠、および対策」について、具体例を3つ以上用いて、1000字程度で記述せよ。

作成は、自分の知識のみ行うこと(一般大学でいう、「持ち込み不可」の条件)。

これだけ話題になっているChatGPTをはじめとする生成系AI.まさか何も持論なし、ということはないでしょう?ポイントがズレていると、閣僚としての資質が問われることになります。

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政治家の仕事

岸田さんが改造内閣をすすめています。内閣として、大臣を決める事。これも政治家の仕事でしょう。

そんな記事を読んでいて、政治家の仕事って何かなあ、、、と考えてしまいました。

駅立ちをして、ビラを配る。議員にならなければ政治家としての仕事ができない、とすれば当選するための作業はすべて仕事ということになるのでしょうか。

地域のお祭りに顔を出すことの集票の為、ということでしょう?政治パーティーを開いて人的ネットワークを拡げるのも「政治家の仕事?」

無風凧は、理科系。専門分野は数学と物理、システム論、組織論の人間です(これらに、社会人経験を組み合わせて、ビジネスコンサルや起業教育ができるようになりました)。自然法則は、人気ではなく実験の事実が全て。数学も、論理的な証明ができていることが絶対に必要なことであり、人気がどんなにあっても、正しいか否かは多数決ではない。事実と論理の積み重ねです。事実と論理の積み重ねで評価が決まっていきます。勿論、普通の人づきあい、はしていますが、自分の理論や成果・まして評価されるためのためのネットワークづくりではない。

同様に考えれば。

政治家は、自分の政治論や提案で評価されるものではないでしょうか。如何によい将来図を描き、それに向けての施策を熟考し、賛同を得る。そこに「人望」に要素があることを否定はしませんが、選挙人も、被選挙人=政治家の政治論に対して、審判を下し、選挙するのが正しい姿だと考えます。

加えて言うなら、政党は「政策」が同一の人のあつまりで会ってほしい。今の政党は、まるで企業と同じ。党首=社長という感じでしょうか。執行部会は取締役会。一般党員は、平社員という感じで、党首の意見と違えば離党させられる。どこかおかしい、と感じます。そもそも、目指す将来像が全く同じではないはず。少なくとも、何百人の議員が金太郎飴のように同じ意見、、、、気持ち悪いです。

そのように考えると。政治家の仕事って何なのでしょうか。議員の皆さん、議員候補の皆さん、今一度考えてみて下さい。

 

 

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これも多様性

ゲン担ぎの数字。多かれ少なかれ、皆様もお持ちのものと思います。昔は、4や9,キリスト教圏では13が、多くの人に嫌われていた。半面、7はラッキーセブン、気に行っている人も多いと思います。例えば最近は、299という番号が好まれているそうです。理由は分かりますか?無風凧には全くわからないので、299という数字の価値はわかりません。

このゲン担ぎ。人によってはとてもこだわります。、結婚式の日取りを決めるなどと言うと、仏滅、というだけでもとても大変なことになるでしょう。それこそ日付に値段がついたり、喧嘩が起きたり、、、それ以前に、心情的に絶対にだめ、なんてこともあります。とある友人は、車のナンバーで666を見ると、どんな用事も打ち切って帰宅してた、それほど嫌な場合もあるのです。

このように考えると、その人に振られた番号がその人にとって好感が持てるものであるのか、それとも嫌な数字であるのか、それはその人の受け取り様で多様性の一種だと思いませんか?そう、LGBTQと同じ、多様性としてはその数字を嫌うという気持ちも尊重しなくてはなりません。

裁判になった場合。第三者、つまりその数字に特段思い入れの無い人にとっては「数字は一律に与えられたものであるから我儘は認められない」となることが見えています。でも。嫌なものは嫌。それがPTSDの遠因になる可能性もある(積もり積もってPTSD発症となるその一因)。一人一人の「思い入れの多様性」は評価が可能でしょうか?

先般問題になった、学校給食を無理に食べさせられてPTSDになったという事件も、裁判所の判断としては違法ではないという判決になっていますが、PTSDになるほど完食が無理だった、となると、やはりそれは心の傷害事件だと扱うのが妥当だと無風凧は考えます(つまり、判決が間違えている)。

このように考えると。車のナンバー1つ取ってみても、その人の思い入れによって、附番の仕方を変えなくてはならない、そのような時代になるのかもしれません。

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