研究の重要度、研究者の資質(2)

前回記事を書いていて思い出したのですが(コチラ 参照)、私の先輩にこういう方がいらっしゃいます。

彼が大学院の頃、思っただけで文章の作成ができる装置を作りたい、と思ったそうです。今からもう50年前の話です。彼はそのために脳波を測定する装置の重要性を説いて、実験計画を作り、研究資金獲得に奔走したそうですが、当時は夢物語と取り合ってもらえなかったそうです。

2022年の現在、まさにこの手の研究が進もうとしています。言葉を聞いた時の脳波の動きを測定する装置が開発されつつあります(コチラ など参照)。もし50年前に、その技術に対して理解があったなら、もしかしたら日本は AI の世界で世界に先んじていたかもしれません。しかし、結果はどうでしょうか。

研究の重要度、などというものは後からしか分からないものなのかもしれません。それを、今判断しようとすることが、研究の目を潰してしまう結果を導き、ひいては、科学技術の進歩を遅らせているのかもしれません。

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研究の重要度、研究者の資質

大学の教員なりたい人のほとんどは、、、研究をしたいから、でしょう。研究したい。 積極的に研究者になりたいわけではなく研究以外の仕事ができない、という稀有な人もいるでしょうが、いずれにしても研究したい。

では。その人の希望する研究は、どの程度重要なのでしょうか?そして、その人の「研究者としての素質」はどのように考えればよいのでしょうか?

そもそも、として測れるものでしょうか?

研究者の世界は、実力一本勝負ではない。成果が出るということと、その人の資質・実力があるということは、まったく別。加えて、研究が重要か否かはわからない。現時点でそれら「重要か否か」をどのように判断するのか。

1) 識者とか大御所と呼ばれる一部の人の「限定合理性」の中で判断される

2) 研究者の「インフルエンサー」的なロビー活動の効果が大きい

3) 公金を使う場合は、「まったく専門外」な官僚の判断にゆだねられる

の3点をもってしても、本当に重要なものか否かの確証が下がっていくことは間違いないでしょう。

大器晩成、という言葉があります。二十過ぎればただの人、という言葉もあります。これらは、実力が変わらずに、環境=取り巻きの扱いが変わると考える方が、合理的な説明ができます。

ということで。限られた研究職というポジション。どのようにして決めればよいのでしょうか? このネタも続きそうです。

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非常勤の雇止め問題に端を発して。

昨日は、小中高の教員のブラック環境の話を書きましたが、今日は大学非常勤教員の雇止め問題。

実際、どの程度の方が雇止めになっているのか、、、実は、ちょっと調べた範囲では不明なのです。有期から無期に転換する権利を持っている人の数は、3700人らしいのですが(コチラ 参照)、NetNews上で調べても、早稲田大学、慶応、阪大、専修など例は出てくるのですけど、全数把握はありません。実態はどうなんでしょうか?

いささか古い朝日新聞の記事を引用すると、大学教員(無期)は18万人、非常勤は16万人ということになっています(コチラ 参照)。約半数が非常勤。16万人の中で、3700人(2.3%)しか無期転換の権利をもっていない、、、というのは、上記数値の条件理解がどこか不足しているのだと思います。

そこで、まず条件理解を少し考えてみたのですが。

1) 名誉教授や特任教授の中で、知名度を上げるための教員が相当数存在する。(青森大学の福山客員准教授を例としても良いでしょうか?)

2) 非常勤教員で、複数の大学を掛け持ちしている方は、どこか一つの大学にかぎると年数が届かない

3) プロジェクトに所属している教員で、雇用主が変わっているために同じ業務をしていても積算で10年に届かない

などが脊髄反射で挙げられます。とするると、無期転換の有資格者の問題より、2)3)の数の実態把握の方が重要なのではないか、と思ってしまいます。

ところで。無風凧は思うのですが、大学で本当に研究業務ができている教員って、どの程度いるのでしょうか?昨今、研究教員と実務家教員という区分けが始まっていて、実務家教員の中には研究能力が著しく低い方がいらっしゃるという話を聞いています。また、非常勤教員の方からは、非常勤の掛け持ちを行い、教育に明け暮れるため研究する時間が少ない、という愚痴を聞くことがあります。

加えると、研究教員の中にも、公務と称する事務作業に追われ、だんだん論文が欠けなくなってしまった、という方は少なくありません。論文の指導して、セカンドオーサー以降に名前が載せるのが精いっぱいだよ、と自虐的に語ってくれた方もいらっしゃります。研究のプロデューサーではありますが、もはや研究者ではありません。

このように考えると。大学は、研究機関としての役割を忘れかけているように思います。少なくとも、無風凧が知っているほとんどの大学で、教員に日々求められているのは公務と教育。研究は業績報告の際に書くだけ。

とすれば、大学における教員の役割を変える必要が出てきます。学校教育法の改正が急務ということになります。そのうえで、教育教員と研究教員を分ける。分けたうえで、必要な教員数を算出する。研究教員のキャリアパスは研究を続けることでしょうが、後輩に研究能力で抜かれたと思えば、潔く教育教員に転身する。

そもそも論として。優秀な研究教員が優秀な教育教員ではありません。

おっと、何を書きたかったのかわからなくなってきたので、今日はここまで。

 

 

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上智大告訴される。

非常勤講師への不払いが原因で、上智大学が労基署から告訴されました(コチラ参照)。

当該非常勤講師は、、2019年から2021年までの3年間で105時間75万円分の超過勤務があったのだとか。コマ数がわかりませんが、一年間35時間。通年科目が30コマだとすれば、一コマにつき1時間の超過勤務ということになります。1時間が約7500円。高いと思われるかもしれませんが、、、実際はどうでしょうか?(非常勤講師は、準備と講義と採点評価を含めて、一コマ当たり半年間で30万以下が相場だと思います)。

さて。ここで考えてみたいことがあります。無風凧が大学で講義一コマ(90分)を行う場合、準備に5~6時間かかります。これは、準備だけ。この時点で、県や都の定める最低賃金になんなんとします(一コマ講義して8000円程度と聞けば高級と思われるでしょうが、準備を含めると時給はやっと1000円超え程度です)。これに、レポートの採点や期末試験の採点など加わります。こちらは、人数(学生数)に比例する部分が大きいですが、実質無給です。

かつて。450人教室の講義を通年で持っていた時は、試験(中間と期末)の採点と評価だけでそれぞれ一週間まるがかりでした。でも。支払いは15コマ分だけでした。。。そうそう。出欠チェックもばかにならない。毎回30分以上かかります! 非常勤講師でしたから、相当苦労しました。

同じ科目を複数年すると。準備の時間は若干少なくなります。とはいえ、無風凧の科目の場合は時事ネタを入れますし、学年ごとに理解度が違うので微修正を行う、、、少なくなるのは、せいぜいパワポの作りこみの部分の半分程度、ということになります。

この3年間は、COVID-19対策で、オンライン対応するために資料を作り直す必要がありました。また、単に作り直すだけではなく、しゃべり方や進行の工夫が必要で、随分時間がかかりました。

そんなことを考えれば、本音でいえば、講義のみで2倍、評価採点は一人あたり1000円、という程度には支払ってほしいな、と思います。

そういう風に考えると、75万円の支払いは随分少ないのかも、と思ってしまいます。

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公共サービスと需供関係

学校の先生が足りない。とても深刻な問題です。(コチラ など参照)

なぜか。ブラック企業化している、というのが通り相場です。

でも、その理由について言及しているものは少ないように思います。とはいえ、言及しているものも散見されます。

教員数の供給量が、需要量に見合っていない。給与の均衡価格に収束していない。

ここまでなら、ちょっと経済学を学んだ人なら常識です。ここで、2つの課題があります。

一つ目は、教員数は、供給量附則にならないように常に過供給の状態で平衡しなくてはならないこと。つまり、経営的には常に赤字(というか、赤字方向のロスを見込まなくてはならない)ということ。営利組織の経営者なら、看過できないことです。また、公教育の場合は、、、「市民の目」があるので、さらに厳しいかもしれません。

もう一つも、よく議論に上りますが、教員不足の文脈ではあまり出てこないかもしれません。

教育の質の向上、が求められているということです。上述の需給関係でいうなら、一人の教員あたりの「生徒数が減る」=「教員単価が上がる」という作用があります。なので、生徒数も教員数も変わらないくても、教員単価が上がる=供給量が足りない状況になる、ということになります。この作用、戦後は60人学級が当たり前だったのが、今や20人学級、ということでもわかることと思います。

最終的に何が言いたいか、というと。

日本国憲法で義務とされている「教育」が、公的サービスである限り、今後解決できない問題である、ということです。いつまでたっても、どこまで行っても教員数は足りない。ブラックな状況。教員数を増やせば、その分教育の質が上がるから、「更に教育の質を上げる圧力」が加わる。よって、またまた教員数が必要になってくる。

これを解決するには、「義務教育という制度を辞める」しか、原理的には手段がなくなります。

かくして、、、教育の世界も競争原理が復活すると思っています。

 

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評価・判定

今日のプロ野球、面白いシーンがあったそうです。ロッテの佐々木投手の投球に対して、球審(白井球審)が詰め寄ったらしい(コチラ など参照)。

佐々木投手に、投球判定に対する不満があったかどうかはわかりませんが、この記事を読んで、「評価・判定」についてちょっと書く気になりました。

評価や判定は、皆様「公平である」ことが大前提であることは論を待たないと思います。そして、この公平が幻想であることも。

上述の佐々木投手の例でいえば、投球判定に不満がおきるということはあります。それに対して、感情が出ること、それを止めることはできないでしょう。アンガーマネジメントに長けている人なら抑えることが可能かもしれませんが、実際は無理でしょう。そのうえで。「判定が正しいか」という別議論があります。この点も、上述の佐々木投手の例は示しています。

感情が出たことを認めない、こと自身も、メタに考えれば、感情的になっている証左だと言えます。その時点で、審判の感情は認められていて選手の感情は認められていない、というアンバランスが起きています。

そして。投球のストライク/ボールの判定正しさは、別議論。最終的には「第三者」の判断になるのでしょうか?それとも審判が絶対正しいのでしょうか?言うまでもなく、第三者的に正しさがみとめられるか、が基準でしょう。

さて。

この野球の例を、業績評価にして考えてみます。

佐々木さん(仮名)の業績評価を、上司である白井部長(これも仮名)が行います。この結果を佐々木さんが不当だと思うこと。それは往々にしてあることです。この業績評価に対して、佐々木さんは、白井部長に「どこが業績ふそくなのか」問い合わせたとしましょう。

ここで、上述の野球の例と比定してみると。

1) 白井部長の評価は正しかったのでしょうか?

2) 問い合わせたことに対して不満を感じた白井部長は、佐々木さんの次期の査定を下げました。

一般企業に限らず、よくある構図です。1)2(に関しては、最近のTeal組織論などでは「全体評価」などという手法で改善をここ見ているようですが、一般企業では今でも「上司による判断」だけで進めます。この時点で、無風凧的には組織として「問題あり」と判断します。

繰り返しになりますが、これは「日常茶飯におこること」です。結果として、佐々木さんはモチベーションがさがり、組織としてもパフォーマンスが落ちる。これは、組織の構造的問題点です。

最後に、もう一度、今日の日本ハムーロッテ戦の例に戻りましょう。この場合、電子判定をはじめとして、「第三者的に公平な判定」ができれば、佐々木投手も納得し、不満は表さなかったでしょうし、白井球審が詰め寄ることもなかったでしょう。これは可能です。

組織においては、、、、人事評価を「公平にする」ことが上述の電子判定に比定される方法になります。その絶対的な手法は開発されていませんが、全体評価などで納得がされやすい評価方法は開発されつつあります。もっとも、それも行わずに上司査定を旧態然と行っていて、組織のパフォーマンスが下がっている、なんてことが往々にしておきています。それに気が付かない経営者がなんと多いことか。ここを改善するだけでも、日本の国力は30%くらいはアップすると思います。

 

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教師は不足、ポスドクは人余り

1月末の時点での話ですが、新年度の公立学校の教員は2558人とのことです(コチラ参照)。必要教員数全体にとっては0.31%と言えば、小さいようにも思いますが、、、平均で30人の生徒・児童が相手になるすると8000人もの生徒・児童が放っておかれることになる、、、由々しき問題です。

高校以下の教員は不足していますが、逆に大学教員の方は職場が足りない。いや、正確に言うと、ポスドクという形のモラトリアムが15000人ほどいる(コチラ を参照)。

色々な人が主張していますが、ポスドクを高校以下の教員と雇用すればよい、と考えるわけですが、、、世の中、そう簡単ではありません。うまくいっているようなら、こんな問題は起きていません。

そもそも論ではあるのですが、ポスドク問題の根底には、「自分の専門性を生かす研究がない」というのが建前です。これは、大学を「研究機関」としてその研究に従事することを希望しているのですが、その研究職がない、ということです。これは、その専門領域の「需要等供給の関係」の中で、人余り状態になっている、ということです。見方によっては、ポスドクの作りすぎ、という課題です。ここでもう一つ、着目している課題があります。それは、学生の質が変わりつつあるということです。学生が生徒化している、ということでわかってもらえるでしょうか。その結果、大学は研究機関から教育機関になりつつあります。

その証左としてFラン大学ならずも、校務と称する作業が昔に比べて飛躍的に増えている。一流大学ならいざ知らず一般大学だと、一般的な大学の場合、終日Officeタイムの半分以上は公務。また、週に4科目持ってみてください。その準備と成績確認、レポートチェックなどで一週間は過ぎてしまいます。自分の研究は、、、After5ということで、結局大学教員もブラック化しているという話も聞きます。また、無風凧の知っている研究教員の方は、今の大学に移って、研究テーマを変えざるを得ない、と言っていました。つまり、元々の専門領域ではない「研究テーマ」を持つということです。この場合、、、専門性が随分下がっていることは否めません。つまり、研究教員としての資格が下がっている。

以前、無風凧は大学の「教育教員」制度の提案をしました(コチラ 参照)。研究教員、実務家教員を統廃合して「教育教員」というカテゴリを作る。そして、教育教員は、資格制度とする、とすれば、ポスドクから高校教員に流れていく人が出てくるのではないでしょうか?

今日はここまで。

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言葉の定義 について

いよいよ新学期が始まります。大学教授の顔の無風凧は、新入生受け入れの準備をしています。先日も書きましたが、今年の一年生は全員「成人」です(コチラ 参照)。去年の学生と、おそらくはほとんど同じ生い立ちをしてきた彼等彼女等が、いきなり「大人」。教員として何をかえなくてはならないのか、考えてしまいます。

ただ、これだけは確実に言えること。最近の学生は(この言葉が出てくるようになっただけ、無風凧も年を取ったということですね)、昔の学生に比べて「理解力が落ちています」。その反面、表現力が随分高いな、と思う学生が増えています。

理解力が落ちていると感じるのは、文章を読ませると一発でわかります。大学一年生に2000字程度の文章を読ませて、その主張をようやくせよ、というような課題。ある学生は、入試の延長のように線を引いて、キーワード抽出する。書いてある要約は一見素晴らしいのですが、質問すると、前提条件や背景すら答えられない。それどころか、「反対の主張を書いてみよ」というと、支離滅裂になる。

共通テストの数学が長文化した、難化した、というNewsを何度も見ましたが(コチラ など参照)、上述の理解力が落ちていることと関係があるように思います。実際、無風凧は数学として「難化した」とは思っていません。国語の読解力も問われるようになった、と考えています。

半面、表現力というかプレゼンテーションの能力は随分と長けた学生がいます。下手な教員よりもうまい、という学生もいる。これは高校教育の成果でしょう。素直に素晴らしいことだと思う反面、学生間(学校間かも?)の格差が大きすぎる。

ただし。良いプレゼンテーションをしても、その中身がスカスカということも多い。メラビアンの法則によると、好感を持ってもらうための要素としては見た目と音声で90%超、内容は7%という結果が出ていますが、まさに「好感を持ってもらう」ことだけに特化した能力のような気もしています。

さてさて。最後に今日の主張。

上の二つの状況の共通する背景として、言葉の定義があいまいなままの学生が多い。いや、学生だけではなく、大人もあいまいなまま会話をしていることが多い。学生は、そもそも論としての定義を確認していないし、大人の場合は、お互いのシニフィエがずれている(これは自省を含めて、ではあります)。言葉の定義の確認は、一昨日描いた「文脈の確認」の前に行うべきことです(コチラ 参照)。

言葉の定義をきちんと確認することさせること。それを新学期は徹底していきたい思っています。

 

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定員未満の不合格

昨夜の地震は随分驚きました、、、が。無風凧邸は、横の道で深夜水道工事を行っている関係で、「常時家が揺れている状態」でした。なので、停電になるまで地震に気が付きませんでした笑。被災された方にお見舞い申し上げます。

さて。Yahooを見ていて目にとまったのが

「【高校入試】定員未満でも13人不合格 木更津高・理数科 県議が疑問視、他校でも 千葉県内公立校」コチラ 参照)。

この記事は、定員未満であれば、全員合格させてしかるべき、という主張のようです。

でも。全員合格させてしかるべき、という主張は正しいのでしょうか?高校と大学とは若干違う部分もありますが、大学教員と大学事務局をともに経験している無風凧とにとっては、全員合格させてしかるべき、という主張は正しくないように思います。

定員は、その数を必ず入れるという公約ではありません。最大数を示しているものです。

音楽のコンクールでは「一位なしの二位」ということが時々ありますが、それと同じ構造です。グランプリに値しない、となった場合には、グランプリを出さないという選択肢もあるのです。

さらに言えば。入学する学生の多様性(注)を認めるということは、それに見合うだけ教員の多様性も求められます。自分の高校で対応できないという判断をした場合、入学をお断りする、という選択肢は尊重すべき事項です。

昨今、教員のブラック化が叫ばれていますが、多様性対応は、既存教員に対してのブラック化まっしぐらです。多様性対応すると、標準学生への「サービス低下」になります。結果として、学校のValueは下がります。

などなど、まだまだありますが、総論として「不合格判断」に大賛成の無風凧です。

注: 「多様性」を「落ちこぼれ」と読み替えても良いですが、「吹きこぼし学生(レベルを圧倒的に超えてしまっている学生)」と読み替えても良いです。吹きこぼし学生対応も、とっても大変です。

注: 無風凧の経験でいえば、標準学生に対する個別対応時間(個別相談やレポートのコメントバック)を1時間とすると、落ちおぼれ学生は5時間、吹きこぼし学生は10時間くらいかかります。

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早稲田大学さん、真摯な対応を無風凧も望みます

早稲田大学教育学部入試の国語の問題で、オモシロイ事件が発生しています(コチラ 参照)。

記事によると、長文読解の解答(選択方式)が、1) 回答を作った予備校によって異なる だけではなく、長文の作者の意図から正解がない場合もあるのだとか。

この事件に対し、作者からの問い合わせに早稲田大学が回答しない、としているのがオモシロイ。

入試は、正解があって、その正解に基づく配点を競うゲーム。とすれば、正解の説明は、公平性の観点からの主催者(この場合は早稲田大学)が行わなくてはならない、と無風凧は考えます。しかし、それを行わないとした時点で、とても興味深い事件です。

さて。

この事件のさらに面白いところがあります。それは、大手予備校の解答例が異なっている。これは、選択肢の作り方の甘さもあったかもしれませんが、「著者の主張が複数に読み取られている」ということです。良い文章・分かり易い文章なら、だれが答えを作っても正解は一つでしょうし、また、著者は自分の主張を記述してるわけですから、できるだけ誤解が無いような文章を書くものだと、私たちは思ってしまいます。

しかし、上述の早稲田大学の入試問題の場合、正解を万人が一つとは思わなかった、、、言い換えれば、「分かりにくい文章だった」。この時点で、作者はある程度の自戒が必要かと思います。問題を自分が解いてみて、正解がない、と騒ぐよりは、自分の筆力の向上を目指す方が建設的な人生を歩むことが出来ると思うのですが如何でしょうか?

さらに。そのような文章を選ぶこと、、、入試には適していなかったのかもしれません。

# その上で。 明文化した採点基準では測れない「学力・能力」があるのも事実。AIが人間を超えることが出来ない部分です。

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