文科省の新しい大学評価の指標は意味が無い鴨(ランキングを考える)

文科省が、新しい大学評価の方向性を発表しました(コチラ など参照)。

これによると、「学生がどれだけ伸びたか」を指標とする(定量化する)ことで、脱偏差値、新しい大学評価基準としたい、ということが主旨です。

でも。

これまで無風凧の「ランキングについて考える」を読んでいる方にはお分かりだと思いますが、、、、

新しい評価軸が出来れば、その評価軸の弊害があります。

1) 評価軸が1つだけになる。

2)その評価軸で評価されるように大学は学生を評定する。

すくなくとも、脊髄反射でこの2つは絶対。

つまり。

指標=評価軸が変ることで、大学の見た目の序列は変わるかもしれません。でも、「大学での教育効果が向上する」「大学の教育が本当のいみでよくなる」ことは無いことは断言できます。

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大学院の定員増と若者の将来

文部科学省が、大学の定員を減らし、大学院の定員増を計画しているとの報道がありました。

日本の国力、技術力、経済力を上げるために、高度に教育された研究者が必要だという判断に基づくものでしょう。この報道を見て皆さん不思議だなと思いませんか?

昨今、高校の無償化、そして大学の無償化も叫ばれています。つまり、裾野を広げるという施策が検討されています。この結果が大学の定員増であることは、言うまでもありません。

今国民が求めていること=各政党の公約は、大学の定員増。文科省は大学の定員減。これは矛盾だと無風凧は理解しています。これだけでも、国会と官僚の考えている方向性のズレがあり、無風凧としては気持ち悪い。

でも今日の主張はココから。

以前から無風凧は主張していますが、18歳の若者に「大学以外の自分を生かす道」を模索してほしい。チャレンジしてほしい。そのように思っています。その意味で、大学の定員を減らすこと自身は無風凧の主張と一致します。

しかし、それに付随して必要なことは、大学院の定員増ではなく、大学以外の選択肢へのサポートです。研究職として大学院に行きたいという学生に対しては、大学院に進むサポートが必要でしょう。しかし、現実を見ていて、研究職の需要=アカデミックポジションや本当の意味での研究を行う企業の研究職はあまり高くありません。実際は低いと言って過言じゃないでしょう。

そのような状態下、大学院の定員増を行うことで日本の国力が上がるという安易な考え方、選択と集中ということなんでしょうけれども、には賛同できません。選択と集中は20世紀の成功体験から抜け出せない輩の考えること。今はもう21世紀に入って四半世紀過ぎようとしています。20世紀型から早く脱却して、より良い施策を考え、実行してほしいものです。

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2種類の大学

以前、「実務家教員は体系的な知を語ることができない方も見受けられる」と辛口のことから来ました(こちら参照)。

でも、一昨日の記事をご覧になってお分かりのように、無風凧自身も考え方が変わってきました。

大学が、就職予備校化しているのであれば、研究教員よりもロートルであるといえども実務家教員の需要は増えます。研究教員は、統計的な意味で、過去の事象を知としてまとめていきますが、それは全てあくまで過去の話です。

いま、過去の話と書きましたが、自然科学と社会科学では過去の扱い方が異なります。自然科学は、実験による再現性を持っていますから、過去からの知の蓄積は大切です。もちろん、どこかで大きな建設点が来ることもあるかもしれませんが、少なくとも、実験的事実を再現できるという意味では、過去も現在も同じです。つまり体系的な知を学ぶことは、基礎として重要なことです。

しかし、社会科学はそうではありません。時代によって環境が変わります。そのため、過去の蓄積値は現在の正解を導き出すことがありません。言い換えれば、再現はできないのです。その意味で、研究教員が話をしていること=体系的な知 は、知っていることを無駄だとは言いませんが、再現することは不可能なことです。ですから、研究教員が話をしている体系的な知も、実務家教員が話をしている自分の経験も、実は同じ「ケース」の説明です。見方が体験なのか客観なのかの違いだけです。

ここで一つの問いが生まれます。

就職予備校、と捉えている学生たちにとって、研究教員と実務課教員、どちらが彼らのニーズに合っているでしょうか。もちろん、1クラスの学生の中には研究志向の人もいれば就職希望の人もいます。ですから、ここでアンケートをとって統計処理をしても何の意味もないことは、お分かりいただけると思います。

結果として。

研究志向の大学と、就職志向の大学、この2つは分けられてしかるべきなのではないかと無風凧は今は考えています。

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大学を就職準備段階と考える(大学は変わらなければならないのか)

大学教育の現場にいると、学生の動きが昔と違うことがよくわかります。昔、、、と言っても2010年ぐらいのことですが、、、は、大学を卒業して就職する、という認識を学生は持っていたと感じます。でも今は、就職のための一つのバッジとして大学に通っている、という位置づけの子が増えたようです。だから、大学に通うよりもインターンやアルバイトの方が忙しいという学生も多い。

文部科学省も、実務家教員を大学に入れてきました。言うなれば、研究業績ではなく、実務歴のある人を大学の教員として雇うようになったということです。この時点で、文部科学省は、大学を研究の場だけではなく、就職の一つのパスだと考えてることが分かります。

このように考えると、教育基本法にある大学の位置づけは、変化していると言わざるを得ません。いわゆるアカデミズムのみではなく、就職予備校という機能を持たせざるを得ない。

しかし、ほとんどの大学(一条校)は、研究大学であることを望んでいます。就職実績を競うようになっている大学であっても、教員採用の際は、研究実績で判断している。ここに大きな矛盾がある、と皆さんも感じませんか?

無風凧は思うのです。今の世の中、大学に求められている機能の半分は就職予備校。であるとするならば、旧態依然とした研究教員だけでは世の中のニーズに答えることができない。世の中のニーズに応えるためにどうすれば良いか、それは一旦、研究のための教育を忘れ、実務のための教育つまり手に職をつける教育が必要なのではないか。

今の大学にも、研究者として優秀な学生はいます。でもその数は昔と変わっていないでしょう。大学生の数が増えている現実を考えれば、研究に適さない学生が増えていると考えることが妥当でしょう。だとすれば、大学は、研究大学と就職大学の2つに分けなくてはならない。カリキュラムも、研究実績者が作成するのではなく実務家教員が作成する、、、決して研究大学の真似をすることなく、、が必要なのではないか。。。。などなど、取り止めのないことを考えています。

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卓越研究大学(文科省は何も分かっていない!)

東北大学が、国際卓越研究大学に認定されるそうです(コチラ など参照)。

記事によると、国際卓越大学とは、

「研究論文の減少や質の低下などを改善するため、世界最高水準の研究力を目指す大学を国が認定し、財政的な支援をするもの」

だということですが。

2023年の日経新聞の記事を読んでみましょう(コチラ)。

日経のの記事によると、

「研究費は「薄く広く」が効果的 筑波大学、科研費を分析」(筑波大学などの研究)

となっています。図を載せられないのが残念ですが、明らかに「薄く広く」がよい結果を出しています。

文科省は、筑波大学の研究結果を信じていない、ということになるわけですね。

無風凧は、怒りをこえて「呆れて」しまっています。

大学は変わらなくてはなりません。それ以上に、文科省も変わらなくてはなりません。

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短大のポテンシャル

人口減少時代。大学経営も厳しさを増してきています。特に、短大、女子大、単科大学は厳しさもひとしおのようです。

無風凧としては、いわゆる大学が多すぎるな、と思っている点はあります。少し言葉はきついですが、大学は就職予備校ではありません。教育基本法にあるように、深く学芸を極める場所です。その意味で、大学は多すぎると思っています。

しかし。

そのように考える無風凧ですが、短大・女子大は、これから伸びるべき大学なんではないかなと思っています。ここ数年、短大が4大化し、女子大は共学になって生き残りを計っています。無風凧としては、「何かおかしいぞ。経営方針の見直しが必要なんではないか」と思うわけです。

このブログで書くだけではゴマメの歯ぎしりですが、無風凧なら少なくとも短大は復活させることができると考えています。いや、時代の要請は短大だと言っても言い過ぎではないでしょう。それぐらい、短大にはポテンシャルがあると思っています。

経営に苦しんでいる短大の経営者の皆様、無風凧と一緒に学校再建しませんか?

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大学の本分はなにか。

教育基本法第7条:
大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

学校教育法52条
大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

日本の法律において、大学を定義する主な条文2例です。

みなさんはこの2つの中に、「教育」ということばが無いことに、違和感を覚えますか?覚えませんか?勿論、法律の名前に両方とも「教育」が入っているので、教育は当然でしょ、という感じもしますが、教育基本法の義務教育(つまり小中)には、教育を受けさせることについての記述がありますが、大学には無い。代わりに「教授研究」という似た言葉がありますが、教授することは、育成ではありません。

「成果を広く提供する」「広く知識を授ける」が、大学の役目だとすれば、「学生(いわゆる大学生)に対する教育」って、どういう法律に拠っているのだろう、と不思議になってきます。

無風凧の主張は。大学における教育の本分は、「深い専門の知識を」授けることであり、基礎力をあげたり(リメディアル教育)、社会適応性をたかめたり(いわゆるキャリア教育と呼ばれるもの)は、大学の範囲外だと考えるのです。皆様はどう思われますか?

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大学の教科書考

東大の授業料値上げが発表され、東工大と東京医科歯科大の合併が直前に迫ったこの時期。

大学における「教科書」について考えてみたいと思います。

というより、無風凧の持論の紹介、かもしれませんが、、、、

無風凧は、数学と物理、そして経営学の分野に比較的興味があるので、以下は数学を例に話をすることにします。

無風凧の主張:

日本中の大学の数学1年生の標準化をしよう。

というと、高校までの教科書のように検定教科書、ということになるのかもしれませんが、そういう意味ではありません。初学者向けの教科書、例えばもっとも判り易いのは定番中の定番である松坂先生の「集合位相入門」を例にしますが、、、これが1年間で読めない学生は大学は留年。読めたら、そこからは各教員の好みに合わせて選択すればよい。

すくなくとも、1年生で求められるアドミッションポリシーとして(そして、大学卒業というディプロマポリシーとして)の「教科書のレベルを一定にする」ことを目的にしています。

最近、本屋には色々な「教科書」が出ています。学問の深化により、深い内容の教科書もありますが、大半は「初心者」のための物のように見えます。学生のレベルが下がっているから、より易しい教科書が必要になっている、と無風凧には思えるのです。

如何でしょうか?共通テストや入試を突破したからと言って、一発勝負の試験と内申書の点数だけの話。本当に学力や理解する能力があるかは、実際に手を動かしてみなくては分からない部分があります。

だからこそ、日本中の大学生は「このレベルは当然」という意味での「教科書の標準化」を提案します。

追記: これは、あくまで初学者・大学基礎レベルにおける提案です。最新の研究結果を教科書にすることや、専門深化したあとの教科書をさしていないことを、ご了解ください。

 

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学歴のインフレ理論

先日、ハタと気が付いた話。

まず前提は、物価のインフレ率は年率2%が良い、というところから。この2%の理論的根拠も現実的な効果も無風凧は納得できていませんが(爆)、なぜか2%が良いとされています。

この前提だと、約35年で物価は二倍になる、という計算になります。逆に言えば、物の価値は、半分になる。

これを、敷衍してみましょう。

Photo_20240512210101 高卒の価値が、35年で中卒の価値へ。そして、大卒の価値も35年で高卒へ。いささか暴論ではありますが、価値が下がるというのはそれだけ「希少性が無くなる=コモディティ化する」と考えれば、経済学的には理解しやすいのではないかと思います。

右図は、大学進学割合の推移ですが、凡そ、上記の仮説を裏付けているように思います。

コモディティ化する、ということは、逆kに言えば「特別ではなくなる」訳でして。即ち、教育基本法の大学の目的(第7条:大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するもの )からは、乖離が大きくなっていくことは、経済学的には必定という言うことです。

大学が本来の目的である「学術の中心」に戻れる日は、永遠に来ないだろうな、と無風凧は残念に思います。

出典 大学入学者選抜者基礎資料3(文科省、コチラ

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経営学部や経済学部があるのに経営赤字の大学

日本には、沢山の大学があります。ググったところ793校だそうです。

その中で、赤字の大学や、入学定員に満たない大学は、東洋経済等の記事によれば、半数を超えています。

その中には、無風凧も知っている(友人がいる)大学で、経済学部や経営学部(もしくはそれに準ずる学部)を持っています。

無風凧は思うのです。経済学部や経営学部があるのに、なぜ赤字になるの? 先生方の研究成果が実は正しくない、ということの証左ではないのか?と。

実際は。

不思議なことに教員はあくまで教員。学校の運営に携わることはありません。それは広報系についても同様で、広告論の教員が居ても、そのアイデアや実績が学校の広報活動に生かされることは、無風凧の知っている限りでは皆無です。2つ理由があります。

一つ目は、純粋に研究目的の教員の場合、調査や研究は得意だけど実務に落とせない。これは仕方がないかなあ、、、と思います。

もう一つは、経営陣が教員の研究結果や理論や結果・知識に疎い場合。つまり、教員は「教えるマシン」であればよいと思っていて、あくまで経営は自分たちの仕事だと縦割りにしている場合。さらには、教員からの意見に耳を貸さないという場合もあるようです。

後者って。

自分の学校の教員の実力を信じていない、ということ以外の何物でもないような気がします。ちょっと極論過ぎますか?

このように考えると。

経済学部・経営系学部があるのに赤字になっている大学は、ガバナンスに問題がある証拠と結論できます。

注: 経済学部でも、例えば組織論を専門にしていると、なかなか経営に結びついていかない、と思う方もいらっしゃると思いますが、あにはからんや。組織がきっちりできていれば、経営はうまく回るものです。これは無風凧の経験上の話。

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