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「正しい」とは何か2(オリンピック体重制限の100g超過問題を例に)

丁度良い例があるので、今回の「正しいとは何か」では、世論とルールの関係、を扱ってみたいと思います。

皆様もご存じの通り、2024パリオリンピックの女子レスリング50キロ級で、インドのフィガド選手が失格になりました(コチラ など参照)。失格の理由は、制限体重オーバー。たった100gですが、計量でオーバーしていたために、失格になったのですが、上記記事を見てもわかるように世界中に同情論が沸いている。また、フィガド選手自身も国際スポーツ裁判所に提訴する、とのことです。

読者のみなさまは、失格賛成ですか?それとも同情派でしょうか?

ここに、「正しい」について考えるキッカケがあります。

そもそも論として、「ルールを守ること」が「正しい」ということに、異論がある人は少ないでしょう。その意味で、同情派の人は間違えていることを主張していることになります。もし、同情派の人を「正しい」とするならば、「ルールが間違えている」ということになります。(論理的にそれしかありません。)

同情派の人は、「たった100g」と言います。では、100gなら許しても良い、というルールを作ったとしましょう。選手はみな50㎏100gの体重を上限として捉え、調整してくることになるでしょう。そう、50㎏級は50.1Kg級に変更ということになります。レスリングのような格闘技は、体重が多い方が有利ですからね。

では、同情派の方に伺います。50.1Kg級で50gオーバーした人に同情できますか?もし、これを許すとしたら、、、オリンピックの体重別の意味が無くなってしまうことは、もうお分かりいただけたでしょう。

このように。

ルールに従うことが正しい、というのは、厳密に「人間が制御」できる事象です。刑法における罪刑も、日本では罪刑法定主義で範囲はあるものの法律で決められています。(もっとも、これが守られていない、ことについては日を改めて書きたいと思います。)

このように、ルールに対する「正しい」は、本来多数決で決まるものではなく、論理的に決まるものなのです。勿論、そのルール自体が正しいか否か、は、ルールを作る時の「多数決」の結果です。一度決めたルールであれば、繰り返しになりますが「論理的に」正しい判断というのは決定します。

これが「正しい」を類型化する時の一つのグループ(類)です。

 

 

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