公開するか否か、という情報操作(ランキングについて考える)
非常に「問題のある発言」を発見したので、今日はそのネタです。
インターネット上を始めとして、色々な「情報の海」に溺れている私たちの日常生活、如何に「正しい情報」を得るかは、大きな課題です。
そんななか、「Factfulness」という書籍がベストセラーになったことは記憶に新しいことですが、それ以外にも「ファクトチェック」と称するものがいくつかあることも、みなさまご存じのことでしょう。総務省でも「ファクトチェック団体の中立性」が問題になったとのことです(コチラ 参照)
上記記事中、更に気になる一文を見つけました。それが下記。
『意見を踏まえた上で「公開範囲を議論するということになる」とした。』
の部分。公開範囲を限定することは、その時点で恣意性が入ります。つまり、「ファクト=ありのまま」ではありません。人権配慮や著作権を始めとするほかの法律による規制・限定が行われざるをえないばあいがあることは無風凧も理解しますが、しかし、その時点で「ファクト」にならかの「外力」が加わっています。
上記記事中では、その「恣意性」には触れず、それどころか「限定範囲の議論は当然」と考えていたように無風凧には読みとれます。これこそ、情報操作の根源であると、無風凧は警鐘を鳴らします。
いわゆる「御上思想」が今でも通底している日本ならではの「有識者」が出しそうな結論です。
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