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日本の神様

多度大社の上げ馬神事や、諏訪大社の蛙狩神事などが、動物虐待として盛り上がりを見せています。

無風凧も、「動物虐待」には反対です。時代により、倫理は変わり、2024年には2024年の倫理があります。昭和や、まして江戸時代以前からの倫理観とは異なります。でも、当時はそれが「大多数の正義=倫理観だった」。という言意味で、日本の歴史を振り返っておきましょう。

まず第一点。ほとんどすべての宗教(?)行事には「生贄」「人身御供」が必要だという事。人間の替りの動物、という場合もあります。このように考えると、神様は殺戮が好きなのかもしれません。また、国譲りの神話も、「神様的な部分」を除いて人間の行為として読むと「戦争」と解釈した方が理解しやすくなります。

そして。人はいろいろな意味で神に頼ります。そのために、お供え物をしたり、神託を得る為にお祭りをしたりします。その結果、自分の思い通りの結果が出なかったときに、人間は「神様の責任」として神使である動物を殺すことがあります。それは、神に罰を与える為。

それにくわえて、昔の豪族の争いは、「神輿を担いだ神様同志の戦いだった」と、中学の歴史で習った記憶があります。負けた罰で、動物が見せしめになっていた、、、のだと考えられます。

その上。占いは神の使いの言葉。人=シャーマンの時代(卑弥呼の時代)を過ぎて、動物や埴輪にその役(つまりは、罰=死)が与えられていたのであろう。占いが間違えていた罰である。

このように考えると。昔の神様は、随分「血を見るのが好きだった」と言えるのではないかと分析します。

今の神様=結局は民衆の倫理観 は、神は優しいもの、血を見ることは嫌うもの、と変化していると考えられます。

無風凧の倫理観も、宇宙船地球号の乗組員としての分を守る、食物連鎖は自然の営みですから、その範囲での食肉は許されるもの。でも、愛玩動物の多頭飼育による劣悪な環境や、動物にいたいする暴力、収益の為・効率化のための動物の「機材化」は、当然なされるべきではないと考えます。

命を大切にする。自然の輪廻を守る。それが、世界のルールの最上位にあるのではないでしょうか?

おっと、主題が変わり始めたので、今日はこの辺で。

 

 

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