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日本の2100年像を考えて。

暴論であることは理解したうえで、一つの方向性として、ブログに書いておきます。ブログに書こうと思った発端は、この記事(コチラ 参照)を呼んだから。でも、以前から、シミュレーション結果の一つとして、候補には上げていた考え方です。

今回の能登地震。救援物資の輸送等に非常に苦労しています。その原因はなぜでしょうでしょうか?

①代替道路が無いこと(海路が発達していた?)

②比較的小さな集落が多いこと(孤立集落)

③都市部から距離があったこと

は、間違いないことでしょう。でもこの理由、ちょっと見方を変えると、「現在の地方都市」の現状と同じではないですか?限界集落への輸送問題は、通常時から上記②③が課題になっています。インフラを整備するにも、コストが都市部よりもかかる。しかも、①が解決されていたとしても、③は依然として残っています。

江戸時代。能登半島に限らず、日本の「人口密集地」の殆どは、河口や山間の集落でした。①~③が当たり前だったことを思い出すと、今回の能登地震の災害は、江戸時代や明治時代でも同じだったのでしょう。

21世紀の今。上記の課題を解決する方法は無いでしょうか? 無風凧は考えるのです。モデルはヨーロッパ中世の城郭都市。人が住む場所は、安全な場所、ご近所さんがいる場所、そして、健康で文化的な最低限度の生活ができる環境を提供できる都市(例えば医療や芸術)。

その上で、今の日本は人口減少社会です。2100年までに改善する見込みはほぼゼロです。とすれば、地方集落をそのまま都市部近郊に移行できないか。一定の経済圏を構築することはできないのか。

過激な具体策は、能登半島の全ての住民を、町単位で〇〇県××市に移す。高度成長時代の日本の施策と同じことです。

消滅する可能性のある限界集落同志を、この際足し合わせる、と言えば、判り易いかもしれません。

勿論、生まれ育った土地には思い出もあり、この上記が暴論であることは理解しています。でも、100年後の日本で、健康で文化的な生活を営むための、一つの考え方ではないでしょうか?

 

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