« 日大と日本の根源問題 | トップページ | アンダンテフェスティーボ »

人間の本質は社会的動物ではないのかも。

最近のZ世代の言動を見ていたら、社会的な動物、とは思えないことが多い。いや、Z世代だけではなく、すべての世代で「社会的」という言葉の意味が変わってきているように思います。

就活や企業で必要とされる「コミュニケーション力」も、30年まえ、無風凧が学生の頃に勉強していた頃の「コミュニケーションの力」ではない。基本は個人。他人と争わないだけ。結果に対して興味も責任も持たないので、本当の意味(=マッキーバーの定義した、という意味)のコミュニティができない。こんなことをつらつら考えていると、人間の本質は社会的動物ではないのではないのかも、と思い始めました

太古の昔。日本でいうなら江戸時代くらいまでは、生活の上での「協業・分業」が必要でした。だから、「コミュニティ」を作って共存が必要だった。

歴史でいえば第一次工業革命以降、コミュニティの意味ではない人間関係ができてしまった。つまり、階層。そのころからだと思うのだけど(それまでもあったとは思いますが)「生活=金銭=階層(支配)」という別軸ができてしまった。これは言い換えれば、「公私」を分ける場合ができたということ。

このころから、コミュニティの意味が変わり始めてい居たのかもしれません。(マッキーバーとは時代が前後しますね、小さな矛盾ですが、本筋的にOKでしょう。)

21世紀になって。物流と情報流がコモディティ化した社会においては、「公私」言い換えれば、収入の手段と自分の時間を分けることが当然になってきた。当然な人の代表格がZ世代。そして、分けることができない世代が旧人類。今の社会は、この二種類の人間が共存している時代だといえる。

さて。上述を言い換えれば、人が社会異的動物であるのは、食が取れなかった時代の方便。本質は「社会的動物ではない」という結論になります。

|

« 日大と日本の根源問題 | トップページ | アンダンテフェスティーボ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 日大と日本の根源問題 | トップページ | アンダンテフェスティーボ »