裁判は公平か?
昨日の話の続きですが。
裁判、という制度は、構造的に「公平ではありません」。
裁判官、検察官、弁護士。この3つの職業に共通する試験は?と言えば、司法試験です。
そう。司法試験に合格することが非常に困難であることは皆さんもご存じでしょう。そして、司法試験を合格した、という時点で「法律や法律文章に対する考え方」が、ある程度均一化します。
この均一化した部分は、一般の人の解釈とは異なることが多い。条文の数え方一つとっても、一般の人の読み方とは違いますから、「司法試験合格組の常識は一般人の常識ではない」ことの証左です。
ですから。裁判は「司法試験に通った人たちの舞台」である以上、一般人の考えと同一にはならない。すなわち、公平ではなくなるのです。
特に。
判決文の中に「著しく損なうものではない」という表現や「信義則に従って」というのは、司法試験に通った人たちの間での「常識」であって、明文化されているものではありませんから、恣意性が入る。その椎の部分に、情状や忖度が入らない、と誰が言い切ることができるでしょうか。
このように考えると。
法治国家という「尺度」を示すことは「公平」のために必要なことではありますが、その解釈を「司法試験合格者の合意」という形で決定し、判断(判決)を下す裁判という制度は、現状では「公平ではない」ということが結論できます。
# 加えると、下級裁判官の任命も、法曹三者および学識経験者ということになっているので、思想や判断基準に偏りが出てくるという意味において、公平ではありません。
これも、無風凧の感じている矛盾の一つ。おそらくは、日本国民に大半もうすうすは感じているのではないか、と思います。
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