教育と国力。(なぜ日本の国力が下がるのか1)
明治維新以降。
日本は脱亜入欧を目指し、「西欧に追いつけ追い越せ」の一大キャンペーンを張って、国民の学問レベルを上げようとしてきました。福沢諭吉先生の「学問のすすめ」も、そのキャンペーンの一環という見方ができます。お陰で、今から約100年前には、当時義務教育で会った尋常小学校への就学率は90%を超えるようになってきました。日本は国力をあげて、日清日ロ、第一次世界大戦と日本は国力(戦力というよりは、生産力や国民の幸せ度という方が適している。GDPという指標だけにすると少し語弊がある)を挙げていくことができました。
唯一の被爆国となり敗戦国となった第二次世界大戦。その後も、日本は教育を国策の一つとして学校制度を整備し、高度成長時代経て、GDPでは世界第二位の国までに発展しました。国民の識字率が上がる(もしくは文盲率が下がる)ことで国力があがるというのは、事実だったのでしょう。
そのような記憶があるからでしょうか。GDPが中国に抜かれ、数年後に5位まで転落するという予測が立つようになった現在も、教育を広めることに余念がありません。教育の無償化や、IT人材育成、そして最近はリカレント教育が叫ばれるようになってきました。リカレント教育という横文字を使うとなんだか新しいことのように思いますが、要は「時代に追いつくように勉強しなさい」というだけの事。昔でいえば「生涯学習」と言っているのと同じようなものです。
しかし。見落としがちではありますが、大学進学率が25%を超えたあたりで日本の国力は頭打ちになりました。1990年の頃です。このころは短大(主に女子短)にも人気がありましが、その進学率も10%程度でした。併せても40%には届かない時点で、国力は頭打ち。でも、その後も「大学進学率」は上昇の一途をたどり、いまや50%を超えているのです。
これは、何を意味しているのでしょうか?
無風凧は、日本の国力ダウンに対して、仮説を4つ、立てています。その中の一つが教育の問題。
進学と習得に乖離があるのではないか。
すなわち、大学に通っても、「勉強しなければ」単なる肩書にすぎません。本人の実力を「大学卒業証書」で膨らませて見せているだけで、結果として「思っていたほどの成果に繋がらない」。
実際の大学教育現場は、レベルの低下、が大きな問題です。実際、定員割れしている大学も沢山あり、学生の売り手市場になっている環境下では、学生はお客様。就学意欲が無くてもモラトリアム期間を過ごすことができます。実際の統計に表すことはできませんが、個別事例なら枚挙にいとまがない、という感じでしょうか。モラトリアム期間ということは、大学の4年間、負の生産をしていると考えれば、国力が上がらないことはうなずけます。
このように考えると、大学教育の意味を再興する時期に来ているのだということに気が付きます。と同時に、人生100年時代の教育は、明治維新以降培ってきた教育制度とは異なるのではないか、という疑念もわいてきます。6334制、科目、その他、色々と一から見直さなくてはならないのではないでしょうか。
長くなってきたので、続きは改めて。
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