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上げ馬神事で考える裁判システムの不備

三重県の上げ馬神事で、馬の安楽死事件が生じました。ネット上に限らずこの話題で持ちきりです。無風会も、動物の命の大切さを考えると悲しみに耐えられません、しかし、逆に、伝統という意味で考えると、おいそれと中止することはできないな、とも思います。伝統と命どちらが大切か、これは法律の問題ではなく倫理の問題と言った方が良さそうです。

しかし。

人間社会においてこの事件の善悪を決めるのは、最終的には裁判所ということになります。

ここから先は、上げ馬神事の例を用いて、裁判という仕組みの不備について語りたいと思います。ここでいう不備というのは、民意の反映がなされない、ことを指しています。言い換えれば時代遅れ。

裁判所というところは、法律と判例に照らし合わせ、つまり過去の事例をもとに、その事件の善悪良否判断するところです。上げ馬神事の場合、過去に違法とした例がありませんから、裁判所の判断としては違法とする根拠難しい。

改正された動物愛護法に基づくと、違法という判断をする可能性も考えられます。しかし、同法には程度(違反となる被害の程度)が示されていません。言い換えれば、怪我はゆるされるのか、それとも、死亡が出たら違反なのか、などの指針が無い。1頭の被害で有罪とすることは難しいと、裁判所は考える可能性が高い(殺人事件は、初犯なら死刑にならない、というのと同じ論理)。

加えて、動物愛護法違反をしたのは誰かという主体を見つけることは、不可能に近い。というのも、伝統行事として企てた人を犯人とするのか、最終的に馬に乗っていた人を犯人にするのか、そういうことも全く考えられていないからです。つまり、裁判所は「違法とする根拠を持っていない。よって適法」となり、今後も続けられていく、というシステムになっているのです。過去の判例があれば、民意は関係なく、時代も関係なく判断がなされる。それが、今の日本の裁判制度。大問題です。

今回は、上げ馬神事を例に、裁判システムの不備を主張していました。皆さんいかがお感じになりますか。

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