好きな音楽2023年3月
今月も、ほとんど音楽聴いていないなあ、、、という感じ。というより、聴覚過敏が少し進んでいて、耳栓をしていることも増えてきています。
電車に乗るときは忘れずに、で耳栓。食器の音も時にはつらいほど。
こういう時は、脳内演奏。脳内演奏は、やはりBeethovenのピアノソナタ、Sibeliusの交響曲、などが多いです。昨日の電車の中では、iPadに入れた論文PDFを見ながら、頭の中は悲愴でした。
今月も、ほとんど音楽聴いていないなあ、、、という感じ。というより、聴覚過敏が少し進んでいて、耳栓をしていることも増えてきています。
電車に乗るときは忘れずに、で耳栓。食器の音も時にはつらいほど。
こういう時は、脳内演奏。脳内演奏は、やはりBeethovenのピアノソナタ、Sibeliusの交響曲、などが多いです。昨日の電車の中では、iPadに入れた論文PDFを見ながら、頭の中は悲愴でした。
人口役割。この言葉は無風凧の造語です。もっと良い言葉があれば、変えたいな、と思っています。英語で、「Your Role for sustanable Community」の日本語訳です(この英語も無風凧の造語)。「自立する都市のためのあなたの役割」が意図です。
離れ小島に一人で漂着したとすると、衣食住すべて自分で行う必要があります。一人だと、野獣に襲われる可能性から逃げることも難しい。文化的な生活ができるか、と言われると「できない」でしょう。
10人くらいいれば、順番で「野獣対策」することはできるようになるでしょう。でも、水道はないし、電気はないし。医者もいないでしょう。
逆に。たった10人の中に「音楽で生計を立てたい人」が居たとしても、その人は「食べていくことができない」と思います。でも、1000人の人が集まったら、娯楽の役割を担う人が必要になってくるでしょう。
このように考えていくと。大雑把ではありますが、現代日本における町(コミュニティ)の「最低限の人口」があることが分かります。持ちろん、100㎞もはなれたコンビニまで買い物に行くことはできないでしょう。介護に関する移動コストは、これからの大きな課題。だから、えいや!と10㎞と区切ってみましょう。
そのように考えて10万人10kmという結論を出しています。
今の国政を見ていて、このような視点は全く見受けられません。経済学の研究者も、あまりコミュニティサイズの話は論じられていないようです。だから、無風凧が小さな一歩を踏み出します。
昨日の記事(コチラ)の解説でした。
・団塊ジュニア(現在47~52歳)
・Z世代(現在10代~20歳代前半)
今日は暴論ですが、少し思い込みで記事を書きます。
右図は、内閣府の出生数のHPのものです(コチラ)。団塊、団塊ジュニア、もちろん親子です。その子供の世代、、、ピークは見えませんが、95年から2005年の間にピークがあった、と思われます。というのは、とトレンドとして、「下降していなければならない」ところですが、下降していない。つまり、団塊ジュニア世代の子供の世代がZ世代の走り、ということになります。
団塊世代は。人口が多いだけのことはあり、競争世代。周りをけちらしてでも上に行く世代。そして、高度成長期を過ごし、なんでも自分たちがやらなくてはならい。
そして、その子供たちがジュニア世代。一般に無気力世代と言われています。団塊世代の「パワー」で黙ることを強要された世代とでの言えるでしょう。
団塊ジュニアの上下世代は、今、最悪の時期です。上述の通り団塊世代が「パワハラ」的に現役として残っていますから、もっとも割を食っています。
そして、ジュニアの子供世代がZ世代。さらに無気力。やる気がない。そして、他力本願、仲間内主義。これらは、団塊ジュニアの性質を受け継いでいるように見えます。
そのほか、経済的な志向なども、色々とかんけいしているとは思いますが、俯瞰してみると、上述も一理あるな、と思いませんか?
最後に、団塊世代はなぜ生まれたか。それは、第二世界大戦です。ということは、第二次世界大戦が今に影響している、と言って過言ではないでしょう。
日本では少子高齢化が進んでいます。過疎の問題は、これから先の日本では避けて通れない課題です。
でも、抜本的な解決策は論じられていません。
過疎の問題の根源は、「人口役割」と「移動コスト」です。
人口役割とは、、、いまの分業社会において、また、専門性の高い医療、教師などは言うに及ばず。電気屋、肉屋、、、色々な役割の人が居なくては「町」は存続できません。その役割を「人口役割」と呼んでいます。スーパーマンがいるわけではないので、ある程度の「人口」が居なくてはこの役割をすべて担うことはできません。
また。移動コスト(時間、燃料、手段)も大きな課題です。言い換えれば、人口役割を「どの程度の広さに」集中させるか、に置き換えることができます。
昔。ヨーロッパでは城壁都市がありました。〇〇ブルク、▽▽グラードという名前がついている都市は、そういう意味での「城壁都市」です。最低限の「人口役割」を満たすことができる単位です。つまり、昔は「自立する都市」が自己組織化されていたわです。
今の「人口縮小時代」にも、同様の意味での「自立する都市」を目指すことが必要だと考えます。
言い換えれば、人口縮小している昨今、「開拓」の逆の「撤退」をすることが必要です。これは、企業でいう「選択と集中」と同じです。企業の場合は「リストラ」ですが、過疎問題はリストラできないので「移住」ということになります。移住することで、全体最適を求めていくことが、これからの日本に求められる解決策の根本です。
そこで。無風凧は提案します。10キロ四方10万人プロジェクト。この地域から外れた場合は、基本として「移住」する。10万人を切ったら、他の都市に吸収・分散されていくようにする。開拓の逆の撤退です。昔から住んでいる場所から、高齢になってから動くことは心理的にも大きな負担になるでしょう。でも、原則としては移住して戴く。そのメリット、特に行政のコストは随分小さくなります。
いささか暴論ですが、20世紀に開拓した世界から、必要に応じて「撤退」することが必要になります。シュンペーターの言う「新結合」が否定される時期が来ています。
東芝が非上場に向けてTOBするとの発表がありました(コチラ など参照)。
この件では「もの言う株主」あTOB価格に納得するか、など百家争鳴状態です。東芝の「再建」よりもそちらに注目している人が多いようにも感じます。
2015年に発覚した粉飾決済以降、東芝は迷走しています。この迷走は「共通の目標」がないことが原因であることは明白です。
共通の目標、、、全ステークホルダーが一つの方向を見据えて行動すれば迷走することはない、と言えます。なぜそれができないのか、その原因究明無しに今回の東芝問題は解決しないように考えています。いま、株主だTOBだと叫んでいても、これは解決の方向ではないのです。
無風凧の考える原因(コチラ、コチラ も参照)。共有の目標がないことは上述の通りですが、ひとつBreakDownしてその原因は、資本と執行の分離。意思決定と実行者の乖離。肥大化した組織。この3つでしょう。
東芝、という組織を守りたいのか。東芝の従業員の生活を守りたいのか。株主の利益を守りたいのか。いま、記事になるのは株主利益の話ばかりです。株主とそれ以外のステークホルダーの希望を「アウフヘーベン」した形での目標で合意を形成しなくてはなりません。もし、どこまでも株主が利益を追求するなら、アウフヘーベンできないわけです。
別の考え方おできます。東芝の従業員の生活を守ることが重要なら、東芝という組織を買い足してしまって全員が「転職」するという道もある。東芝という組織が無くても、従業員の生活を守るという手段を考えることはできるわけです。
このレベルの議論というか合意無くして、TOBしても「何を実現したいのか」が不明瞭です。東芝再建策の2分割案・3分割案の時代からもうずいぶん時間がたっています。無風凧の目で見れば、一ミリも進んでいない。時間が過ぎて、責任世代が時効になり、、、それを待っているようにしか見えません。
土曜日は詰将棋の日!
最近、「出現マジック」作品を沢山発表してきたので、趣向を逆転させて「不動王」を発表(?)です。
タイトル: 不動王をねらえ!(まだ未完成)
この詰将棋、玉以外は全部動きます。でも玉だけは一度も動かない。詰将棋おもちゃ箱の「記録室(コチラ)」のI-46に「不動王」の記録が出ています。おもちゃ箱によると、記録は73手詰だそうです(コチラ)。無風凧の「不動王をねらえ!」は、まだ17手詰だから、四半分にも届いていません、、、
当初は、詰め方の13香の打ち直しと還元玉を作ろうとしたのです。穴熊の姿焼きは時々見かけますが、13香の打ち直しは存じ上げなかったので面白いかな、ということで。作っているうちに、石垣になり不動王になり、、、でも!
最後にお願い! 実はまだ余詰めが一つ、あります(手順前後もありますが)。どなたか、お手伝いいただけませんか?
作意手順:
▲23角成 ▽13龍 ▲12銀成(生) ▽同龍 ▲21歩成A ▽同成香 ▲同桂成 ▽同龍 ▲13香B ▽12歩C ▲21銀成 ▽同馬 ▲33馬 ▽22馬 ▲31飛(*) ▽21合 ▲23桂 まで17手詰
* で、23桂を先に打つの余詰があります。21玉、と動くので不動王にならなくなります、、、だれか、助けて下さい!
A: この清算は手順前後のキズです。
B: 13香と次の21銀成も手順前後のキズです。
C: 非限定(金飛車以外なら可)
大学教員をしていると、世代が変わったな、と感じることも多い。特にこの2年はCOVID-19の影響もあり、大変革があったように感じます。
しかし。
講義の形態は旧態依然。反転学習だなんだと言っていますが、基本の骨格が変わっていません。おそらく学校教育法が出来た当初から変わっていませんから、時代遅れも良い所です。
無風凧が変えなくてはならない、と思っている最も大きな点の一つは、時間割。
エビングハウスの忘却曲線を持ち出すまでもなく、人は忘れる動物です。一週間も前の講義を覚えているはずもない。だから、週に一回という現行の講義形式は、効率的ではありません。セメスター制、クオーター性を一気にこえて、Weeklyか2Week制にするのはどうか、と思います。
例えば。ある科目(数学にしましょう)を、2週間続けて午前中。こうれすれば、20コマ分とれますが、これで2単位。半分は講義、半分は演習に充ててもよい。学校教育法では、45時間で一単位ですから、30時間の講義を受けています。残り60時間は、自宅に帰って、一日3時間。年間10科目は、このレベルで進める。随分力が付くでしょう。それに、前提科目、という考え方をしなくてよくなります。
午後は、一般教養を中心にすればよいでしょうね。
さて。もう一つ変えなくてはならない喫緊の問題は、単位認定方法。
履修主義か習得主義かという論争を持ち出したいわけではありません。しかし、クラスの学生は多様なレベルです。一番優秀な学生に合せれば大半の学生は落ちこぼれますし、一番底辺に合せれば、できる子は「暇」で興味を失います。この状態を間然するには、履修主義ではできません。といって、習得主義で進めれば確実か、といわれると、そうでもないというのが、現場感ではあるのですけど。
続きはまた、改めて。
恵泉女子大が兵学を発表しました(コチラ 参照)。定員に届かない、というのが理由です。
私立大学の定員充足率は、全私学で丁度100%程度です。関東圏のマンモス次第を含めてのこの数字です。地方や小規模大学では、定員に届いていない大学が沢山。大学の数でいえば約半数が定員に充ちていないわけです。
私大は、色々な計算方法はありますが、学生数がそろわなければ運営は成立しない。そのように考えれば、約半数は大学運営に黄色信号が付いている、という訳です。
さてここで。私立大学の経営について、一般企業と同様に考えてみましょう。簡単に言えば。
商品は学生。
収入の部は授業料と国からの補助。
支出は、固定資産(大学設備維持費)、人件費(教職員)、入試広報関係。
受験料がボーナスの源泉になるような黒字大学が別とすると、定員が決まっていて、収入の上限がほぼ決まっているわけですから、赤字になれば人件費を削るしかない。結果、山梨学院のように「教育のみでよい。研究は不要」という、学校基本法の真裏をいくような大学も生じます。つまり、教職員数を減らすことが赤字軽減への道、となります。研究活動は広告宣伝活動の一旦かもしれませんが、目に見えた広告効果を測定することは大概の部阿合無理ですから、研究は不要、となっていくわけです。
大学は変わらなくてはならないか。大学全入時代には色々な意味で変わらないと、50%の大学は構造的に質を下げることになります。教員にとっては、ブラック職場ということになります。
さて、そのために何が必要か。
まずは、大学を減らすこと。その次は、入学定員を撤廃すること。更には、研究教員と教育教員を分ける事。最低でもこの3か条は必要です。
さらには。学生支援機構をなくすこと。大学入学前に「学生の就学支援のための給費制制度試験」を行い企業(および篤志家)が、まるがかえにすること。
などなど、遅きに失した感じはありますが、着手せねばなりません。
まあ、Fランク大学をみていると、Fランクになる理由はそれ以外にも色々ある場合が多いですが、まずは「日本国」という単位で見た場合の最低限の施策、その1です。
今日、WBCの優勝が決まりました。侍日本の皆さま、おめでとうございます。3大会ぶり、ですね。
でも、、、無風凧としては、準決勝の「筋書きがあったようにしか見えない」昨日の逆転劇が印象的です。
9回、ランナー無しから、ツーベース、フォアボール、タイムリーヒット。しかも、最後はこのシリーズ不調だった村上選手ですから、「筋書きがあった」としか思えない。
そうそう。その時、無風凧は駅前に居ました。道行く人がいつものように「スマホばかり見ている」と思っていましたが、WBCを見ている方も少なからずいたようで、町の雰囲気が一瞬、大きく変わったように思いました。
これは、暴論かもしれませんが永年感じていること。こういう「分類もある」という事例です。
無風凧の廻りには二種類の方がいます。
片方は、常に改善=全体のレベルアップ を目指す人。以下ではAと書きます。
もう一つは、その場をまとめで波風立てないようにする人。現行肯定で人によっては現行肯定の為の争いだけは辞さない、というばあいもあります。以下ではBです。
AタイプもBタイプもそれぞれリーダーのタイプがあります。当然、AタイプのリーダーとBタイプのリーダーは言動や素行がことなります。組織論的に言えば、Aはアントレプレナー、Bは調整型リーダーシップやサーバント型リーダーシップであるばあいが多いように感じます(学術的な超調査をしたわけではないので、無風凧の私見に基づく)。
面白いことに、AはBを包含で来ますが、BはAをスポイルする。現状をかえるというだけで「輪を乱す」と思うのでしょうね。今の世の中、改善がさけばれ喫行ブームからアントレプレナーが求められてますが国としてはBが増えてるように感じます。これでは、ユニコーンは育ちません。
今日は、随分暖かい一日になりました。
外回りが多く、コーヒーやお茶もたくさん飲んだのみました。
また、汗が多かったと言う感じもしないのですが。
朝九時半から、夜の7時まで、トイレなし。これは、記録的です!
最近、移動中に論文読むことが増えました。
これまではプリントアウトして持ち歩いていましたが、ダウンロード分はiPad Proで読むことを試しています。
メモの書き込みは、やはり紙の方がしっくり来ます。でも、幾つもの論文を持ち歩くことを考えると、これもありかな、と感じます。そうそう、200ページの英語で書かれた専門書もダウンロード。
申し訳ないけど、huaweiのm5より、iPad Proの方が読みやすいので、重たいけど2台持ち歩いています。
今週の詰将棋も、先週、先々週の同時作成(コチラ もぜひご覧ください)。という意味では三匹目の泥鰌なんですが。でも、これはちょっとした狙いが実現した、という意味で気に入っています。もちろん、還元玉まで行ければもっと満足できたのですけど。
7,9手目と15手目のコンビネーションが気に入っています。
そうそう。タイトルは「途中下車」です。
法律に携わる人は必ず「法の下の平等」と言います。日本は法治国家、法律は誰にとっても平等なものであるという意味です。しかし実際の世の中を見ていて、皆さんはこれは実現していると思いますか?無風凧は、とても実現していない、と感じます。
一番大きな理由は、司法試験の存在。もちろん、法律を熟知した人が必要であるということは言うまでもありません。しかし、全員司法試験を通った、という人達です。例えば法律の解釈一つとっても、同じ考え方をする人達です。解釈の一次性を求めることが司法試験に合格するための必要要件だとすれば、司法試験が存在することによって、考え方が画一化してしまいます。これは本当に平等でしょうか。
この根源の一つは、判例主義でしょう。平等であろうとするがために、過去の判例を参照する。過去の裁判とは差異があるにも関わらず似ているということで同じ判決行おうとする。それにより、今の案件に対して最適な解が出ない。このような考え方をする法律家が多いということも、根源の一つでしょう。
もう一つ。彼らは法律の解釈が問題なのであって、法律の矛盾について解消するということには長けていません。
最近の例で言うならば給特法の問題があるでしょう。教員のほとんどが「給特法はおかしい」と思っているようです。少なくとも、無風会の目から見ても、労働基準法とは相容れない法律なんだな、と感じます。でも。法律のもとの平等、の名のもとに最高裁判決は給特法維持です。
最後にもうひとつ。裁判官や検察の世界も、ヒラメ族がたくさんいます。つまり、上司の顔色を伺う輩です。自分の法解釈よりも上司に気に入られる判断を行うということが行われない、と言い切ることができる人はどれくらいいるでしょうか。結局、信念より人事が強い。もしくは個人の給料は、事実よりも重い、ということでしょう。
このように考えると、日本において法のもとの平等を実現していないと結論できそうです。
シリコンバレー銀行、そしてシグネチャーバンクと、アメリカの「ベンチャー投資系銀行」が相次いで破綻しました。アメリカと、ヨーロッパや日本は環境がちがうとは言うものの、影響は必至です。
いわゆる「シリコンバレー」のベンチャー神話も、一緒に崩壊していくのではないか、と無風凧は10年後を予測しています。一発屋系のベンチャーは撤退し、質実剛健な研究の郷に戻ることを期待、という方が無風凧の気持ちにストレートな表現です。
無風凧は、ベンチャー投資はマネーゲームだと思っています。というのも、新規事業を立ち上げるのは、常に「ゲーム」。100%成功する新規事業なんてありえませんからね。
自己資金でなりない分は、融資か投資で賄う。貸す人は返してもらうことが前提。ちなみに最近はクラウドファンディングなどという手法もありますが、これも投資を変形したもの。起業初期のリスクヘッジの手法の一つです。
さて。このマネーゲームは、ポーカーやパチンコ、競輪競馬とは少し違ったゲームです。どこが違うかということ、出資・融資を行う人(提供側)と、お金を受ける人(起業側)が直接つながっていない。
え?と思う人も多いかと思いますが、銀行もVCも、ほとんどの場合、「個人のお金」ではありません。その意味で、ばくちとは違う。提供側と企業側の間に「いくつの仲介が入っているか?」が大きな分かれ道になります。
個人投資家の場合は、もちろんゼロですね。提供側の「自分のお金」を起業家に直接渡す。だから、個人投資家の「資金」は個人保有のもの。だから、破綻しても投資家個人の範囲だし、そもそも借金するわけではないので、影響は小さい。
機関投資家の場合は。機関の持っているお金。こうなってくると、個人投資家とは少し事情が異なってきます。機関投資家がその機関の持っている資金の中で投資している場合は、影響は1段階だけです。これは、「機関の財布」ー「ファンドマネジャー」ー「起業家」という意味です。つまり、機関の財布が本来の意味でいう提供側です。まあ、失敗しても機関の財布が細くなり、ファンドマネジャーのボーナスが減額される程度でしょう。
でも。機関投資家が「個人の投資家のお金を集めていたら」、事情は異なります。
「個人投資家」ー「機関の財布」ー「ファンドマネジャー」ー「起業家」のように2段階の中継ぎがあります。中継ぎが増えるたびに、ステークホルダーが多くなるのは言うまでもありません。結果、影響の範囲が大きくなる。加えて、責任の所在があいまいになってきます。ファンドマネジャーも、いくつもの案件を持っていて、「全体でプラス」であれば、本人としては「成果」が出ていることになりますが、「マイナスになった」個人投資家は目も当てられない、ということになります。(それをヘッジするための金融商品も最近は多数出ていますが、原理は同じです。小さな失敗の確率は下がっていますが、破綻したときの影響の大きさは大きくなっていて、期待値としては、あまり変わりありません)。
さて、銀行の場合。銀行の場合は、起業家からの利息収入を得ることがビジネスモデルであり、投資家がキャピタルゲインを狙うのとは異なりますが、「ファンドマネジャー=融資担当者」、個人投資家を「預金者」と読み替えれば、まったく同じ構造です。つまり上記の「階層」でいうなら、最初から2段階の仲介が入っている。
とどのつまり、この2層の仲介型のマネーゲームが「崩壊する」条件がそろってきた、というとでしょう。どの場合でも「起業」が成功しないことには勝者がでないマネーゲーム。今は、企業が成功しにくい環境になってきた、と言い換えても良い。
これまでの起業ブーム、一攫千金をめざした博打投資の風潮を改めて、Bootstrap型の質実剛健な社会に変革するべき時期がきたのではないでしょうか?
今日は暖かい一日になりました。
花粉もピークを越したようで、まずは安堵、という感じです。
そんな、絶好のお散歩日和なのですが、無風凧はいま、研究計画の作成に追われています。パソコン相手に格闘中!
ということで、今日はここまで。
無風凧は最近、一度に2杯、コーヒーを淹れます。というのは。
先月、間違えてコーヒー豆を買いました。災い転じて福となす、ではないですが、この一か月ほど普段よりワンランク美味しいコーヒーを飲んでいます(コチラ 参照)。
2杯淹れるというのは、コーヒーミルの都合。無風凧は電動コーヒーミルを使っています。グラインドしている時間で、豆の挽き具合が変わるタイプです。だから、1杯分では挽き上がりのバラつきが大きいのです。バラツキを抑えるために、2杯分の豆を挽きます。
その上で、なんですが。(ここからが本題)
電動ミルのグラインド時間はどの程度が美味しいかを、実験しました。2杯分を10秒、11秒、、、と20秒まで確認してみました。結果、無風凧の好みは14秒。実際、1秒違っても、風味の違いってあるのです。
先日、横着をして時間の確認をせずに勘で14秒数えて挽きました。どうも1秒ほど短かったようで、今一の出来でした。ということで、最近は時計を見ながらコーヒーを挽いています。
今日から、マスクの着用は個人の判断、ということになりました。と言っても、今までも「強制」ではなく、罰則もなかったので、言い方が変わっただけ、というのが実情ではあります。
なぜマスクが必要か。その理由を、皆さん間違えないようにしてほしいと、無風凧はお願いします。
マスクは、自分が感染しないようにするための防御ではありません。万一、自分が罹患していた場合に「他人に感染させない」ための拡大対策です。だから、「自分がマスクをしない場合は、他人に迷惑が掛かる」ことになります。だとすれば、個人の自由にするのは危険です。
ワクチンは。重症化予防がそのほとんどの役割。感染拡大防止にはなりません。だから、自分の判断で「感染した場合に重症化する」ことを理解したうえで「個人の判断の因果は自分で閉じる」ことができます。だから、ワクチンは個人の自由でもよい。
つまり、マスクは個人の自由にできない、ワクチンは個人の自由にできる。
このように考える無風凧は、称賛を浴びている明石市長の発言はピントがずれているように思えて仕方ありません(明石市長の発言は コチラ など参照)。
いまは、感染者数が少ない時期ではありますが、だからこそ、negligible Zeroになるように、努力する一手だということも言えます。そうでないと、5月ころ、またぞろ第9波、、、なんてことになるような予感がします。
とはいえ。これからも「マスク派」と「反マスク派」の戦いは続くのでしょうねえ、、、
# 国も、個人の責任に押し付けてはいけない内容だということに早く気が付いて下さい。その意味でも、理科系思考の為政者の出現が待たれます。
「ツアラストラはかく語りき」の冒頭、ニーチェの有名な言葉です。今日はこの言葉をタイトルに戴きましたが、内容はアダム=スミスの「神の見えざる手」の話からスタートです(注)。
アダムスミスの教えるところは、自由経済環境下では、「価格は、需要と供給の均衡点に落ち着く」というものです。この均衡点に落ち着くのは自然の法則。誰かの管理下で行われるものではない、というものです。この「自然の法則」の部分が「神の御心」と感じる人が多いのでしょう。
しかし、神は死んだ。つまり、価格の調整機能は働いていない。
一番良い例は、日本におけるブラック企業の給料でしょうか。学校の教員、宅配の配達員は言うに老い呼ばず、という感じです。特に学校の教員は、教員数が足りないと叫ばれているいるにも関わらず、給料が上がらない。需要があるのに、価格が上がらないのは、見えざる手が働いていない証左です。その意味で「神は死んだ」。
先日の最高裁判決(コチラ など参照)。教員の残業代に関する判決です。簡単に言えば、「働かせ放題は合法」という判決です。つまり、勤務した労働に対する対価は支払われない。現行法では、給特法があるから合法ということになるのでしょう。裁判所は法律の解釈・判断をする場所ですから、この結果が出てい来ること自体は、自然だと感じます。
しかし、教員のブラック化が叫ばれてすでに相当の時間がたっています。立法(国会)でも手を付けることができなかった領域ということになるのでしょうか。神の力より、「人の作ったルール=法律」が強いことの証明というと、言い過ぎでしょうか。人が作ったルールが神を殺したととられて良いのではないでしょうか。その意味で「神は死んだ」。
そして。上記の例における教員のように、「虐げられている」人たちに対する「救いの手(神の手)」は差し伸べられていません。困った時の神頼みが通用しない、というのも、神様がいらっしゃれば、過労死ラインを越えるような環境での労働は「改善」されるでしょうから。ここにも神はいません、、、「神は死んだ」。
早く、神に生き返ってほしいものです爆。
注: アダムスミスの「国富論」の中では、「見えざる手」と記述されており、「神の見えざる手」ではないのですが、なぜだか「神の見えざる手」という方が多いようです。
今週の詰将棋は上図。タイトルは「これが原図!」とでもしておきます笑。
というのは。
この詰将棋は、もともと、「無仕掛けの出現マジック(つまり、還元玉で玉方の駒が不動)」をめざして作っている過程のスナップショット。飛車、銀、銀と打って足場を確保。角打がお作法で収束という、あまり取り柄のない詰将棋です。この詰将棋で、玉の初期位置を18にして、改変してできたのが、先週の詰将棋です(コチラ)。
先週の詰将棋の2手進んだ局面が下図ですから、創作過程がもろばれ、という感じですね。上図で玉を18にして持駒金一枚増やして、▲19金▽同玉で植えずにならないかなあ、、、が発想の原点です。その時は柿木にたよりました。もちろん、余詰あり。その後は盤駒にも登場してもらいましたが、先週の詰将棋はほとんど柿木さんが作ったようなものです笑。
今日はここから。出典は集英社オンラインの記事(コチラ 参照)です。
「(前略)官僚として徹夜で働いても、労働時間や仕事のハードさに見合った年収が得られないなら、外資系企業やコンサル企業に行った方がいい(後略)」
これを見て、「日本の危機」を感じた方も少なくないのではないでしょうか。労働に見合った対価、というのは、とても正しいような気がします。というか、これを「正しい」と思った時点で、既に「日本人気質」から離れてしまっているのではないか、と無風凧は思うのです。
「労働すれば収入が増える」「収入が増えることが社会貢献の証」、という考えは、キリスト教的な契約思考が根底の考え方。神様との契約によって、神が個人の評価を行ったうえで収入という形で神の御加護がいただけるという流れです。周りの人が喜ぶから奉公滅私で働くという和の国の思想ではありません。
戦後、GHQが行ってきた日本人の宗教観の変更の成果が、こういうところに現れています。万世一系の日本国の美徳が、こういう形でなくなっていく、、、というのは寂しいものです。
脳波測定しました。そして、光てんかんを調べるための明滅テスト。これで無風凧は面白い反応を自認したので今日はその話。
明滅テストは、目を瞑って、LEDライトを明滅させます。多分、2ヘルツくらいから10ヘルツくらいまでだんだん上げてのだと思います。一つの周波数で約5秒程度かな。
眼をつぶっているのですが、視神経は明滅を感じます、、、ここで面白い発見。
眼を開けていれば、最初から明滅を感じるとだと思いますが、目を瞑っているからでしょうか。明滅が始まって1~2秒程度は全灯でついている感じがします。そして、徐々に暗い時間を感じるようになり、さいごは周波数通りに明滅しているように感じる。面白いと思うのは、最初の緩和するまでの1~2秒という時間があること。これは、脳が周期を判別するための時間です。
目を瞑っていたからこの同期するまでの時間を感じることができたのでしょう。
それと。もう一つ面白いことを発見していて。
LEDの明滅で「カチカチ」音がします。その音が聞こえることが、同期までの時間にどういう影響があるのか、ということ。無風凧は耳は相当良い方の人間だと自認しているので、耳が感じる周期に「視神経が同調」した可能性に興味があります。共感覚の一種とまでは言いませんが、カチカチした音の影響をゼロとは言えない、と感じています。
最後に。
脳波測定中にこんなことを考えていた、、、ということも、測定の結果に表れていたら面白いですね。
追伸: ちなみに、明滅テストは無風凧の脳には多大な負荷をかけているようで、12時間以上たった今も、頭痛が消えません、、、泣。
先月、打ち上げ延期になっていたH3の打ち上げ。昨日再挑戦しましたが、「打ち上げ」は成功せず、指令破壊しました(コチラ など参照)。一般的には「失敗」ということになるでしょう(無風凧も失敗だと思うので、タイトルに「失敗」とつけました)。
2月に「中止」した際に、JAXAは「失敗ではない」「フェールセーフだ」と主張していました。だから、もしかしたら「指令破壊」することも「想定された計画の中」ということで「失敗ではない」と主張するかもしれないと思っていました。しかし、さすがに今回は「失敗」という言葉を否定していません。2月の中止と今回の失敗、どこが違うのでしょうね?
無風凧の視点では、「中止」という言葉を使っていたのは「言葉遊び」です。責任を取ろうとしない態度がアリアリと見えます。その意味で、3月の「失敗」は約束されていたことと考えられます。
人は、失敗から学びます。失敗を失敗と認識し、反省するからこそ、成功への道が開けます。失敗を失敗と認識しない時点で、成功はあり得ません。
日本という国は、「言葉遊び」をする機会が与えすぎのようです。続きは明日。
昨年の富山大学の入試問題のミスが報道されました(コチラ など参照)。これにより、今になって追加合格者も出ています。また、看護師学校では、学校のミスで受験が無効になった、とのことです(コチラ など参照)。
富山大学の場合、補償を提案している、と記事にはでており、「再発防止策を6月までに」ということ。看護師学校の方は、「合否の判定後」ということで、まだコメントの発表はありません。
富山大学も看護師学校も、故意ではないでしょう。という前提で以下は論を進めます。
如何に対策を講じようと、必ずこの手の「ミス」は生じます。そのたびに「再発防止策」という耳障りの良い言葉で責任を果たしているように見えますが、結局再発しないことの証明はできません。
よって。このブログでは何度も書いていますが、「補償を明文化する」ことが肝要です。
例えば入試の追加合格に相当するような採点ミスがあった場合、1件〇〇〇万円 の補償(慰謝料込み)をする。それは、当該学生が現時点でどのような状態であろうと、同額。看護師学校の場合も同様でしょう。幾らが適切であるかは少し詳細を考える必要がありますが、受験関係は一律額でよい。無風凧のドテカンでは500万円程度ではないか、と思います。失った時間は取り戻せませんから、その分を「補償」するわけです。
場合によっては、大学も看護師学校も、それだけの「保険」に入っておく必要があるかもしれません。この保険額が大きくなる学校、、、即ち気ミスを犯す可能性が高い学校は、早晩潰れていくことになるのでしょう。
ちなみに。上記は学校の例ですが、その他もすべて同じ。郵便や宅配物の誤配や紛失は勿論のこと、個人情報漏洩なども同様。個人情報漏洩は、悪しき習慣で一人頭数百円程度の補償ですが、これなども、100万円単位の補償にすればよい。そうすれば、「余計な個人情報を集めることがなくなる」という副次的な効果もあり、個人情報漏洩は激減します。
覆水盆に返らず、ということばがあるように、一度おきてしまった事象はもとに戻せないことが多い。それが「何らかの被害」を与える場合は、すべて「補償する」。そういう世界を目指すことを提案します。
週末の詰将棋記事はお楽しみいただけましたか? 新しい週に入りましたが、先週の続き、です(まずは、コチラ、コチラ、をご覧ください)。引用元の記事(コチラ)の中にある、「ヒラメ幹部」について、今日は書いてみます。
ヒラメ幹部とは、、、これも記事からの引用ですが「上のことしか見ておらず、部下のことは眼中にない上司のこと。魚のヒラメの目が上のほうに向いていることから言われている。」
官僚になって、一日2~3時間睡眠で奉公滅私した挙句、ヒラメ幹部になるのが関の山、という人生に今の若者は魅力を感じない、というのが集英社オンラインの記事の「意訳」です。(この意訳には、若干、無風凧視点が入っているかもしれません)。
このような中間管理職は、官僚に限らず色々な企業でみることができます。その意味では、「当たり前のこと」のように思います。いわゆる大企業病の症状の一つ。大企業病は、起業衰退の一つの兆候ですが、それが「官僚」という組織にも起きているというだけの話です。
ここで危惧しなければならないことは3つ。
1. 官僚ヒラメ幹部が天下ると、その組織に「ヒラメ化が進むこと」。つまり、大企業病に罹患して衰退が近づくということ。
2. 官僚組織を「官僚株式会社」と見たときに、就職先の魅力がなくなっていること。これが集英社オンラインの主張の一つでしょうか。
3. 政治家と官僚の力関係から学ぶべきことは、意思決定者と実行者の分割は衰退を招くということ。これは、最近の「組織論」の方向とは逆という意味でも、由々しき大事です。DAOにしろTealにしろ、権限移譲+現場主義は言うまでもない今の組織論の方向。しかし、政治家と官僚の関係は、この逆です。ここまで書けば気が付いて下さる方も多いと思いますが、持株会社制・ホールディングカンパニー制も早晩おなじ運命をたどることを預言できます。(すこし説明不足かもしれませんが、このあたりで止めておきます)。
今の官僚という組織、既に150歳に近い。企業体としてみれば、既に寿命を終えています。人心一新、ではありませんが、組織の行動規範から変えなければならないときが来ていることに、気が付いてほしいものです。
いつも楽しませていただいている「詰将棋おもちゃ箱」。その中の一つのコーナー「展示室ー今月の詰将棋」(コチラ)に、無風凧の詰将棋が掲載されました。No.155 です。 ぱちぱち。
今月の展示室は、「記録に挑戦」とタイトルがついています。無風凧が何に挑戦しているか、は一目ですね。
作品を右に示しますが、ぜひ、おもちゃ箱のWeb(コチラ、再掲)を訪れて下さいね。
土曜日は詰将棋の日!
入玉型なので、成駒無し!も条件にしてみました。
この詰将棋も、大きな傷(ほとんど余詰)があります。詰上がりの形は同じになるのですが、21手目に3分岐の迂回手順が存在するのです。柿木では余詰と迂回、と出てきます。無風凧自身、余詰かもなあ、、、と思いながら、先輩諸氏のご指導を頂くことができれば嬉しいな、と思っての公開です。
と言ったところで。この詰将棋を作っていて、スマホ詰パラ12631「裸玉」を思い出しました。というのは、余詰検索をする際に、初手だけ切り離して、3手目からの詰将棋として余詰め検索し、2手目の応手全部を別途詰手順検索したから。(Okaraさまの12631は裸玉作品。2手目の局面が既知で最初の1手目に対して「同玉」で再度裸玉になることが大きな一手でした。この一手を探すのは随分大変な作業です。)
さて。来週は、この詰将棋の「原型?」をネタにした詰将棋です。ぜひお楽しみに。
昨日の続き(まずは、昨日の記事コチラ をお読みください)。
東大卒が官僚離れし、早慶もそっぽ、ということですが、これは多様性を認める社会、としては当然の帰結ではないでしょうか。すなわち、政府が求めていた社会が実現したから、東大卒や早慶卒の官僚が少なくなる。今の教育制度の一つの「内在的矛盾」なのかもしれません。
かつて。教育基本法においても日本の発展を願って教育はなされてきました。そして、リーダーシップの頂点にたつのが「東大」という図式があり、その「目標=日本の発展=官僚」という図式が共有されていたといえます。のちは博士か大臣か、という言葉も、理科系か文科系かの違いこそあれ、価値観が画一化されていたことがうかがわれます。
しかし今。国をあげてもとめているのはベンチャー。ユニコーン起業を作ることが至上命題になっています。加えて、SDGs教育。そして、LGBTqに代表される価値観の多様化。これらは、上記の「いずれ博士か大臣か」の時代の価値観とは相いれません。すなわち、教育の目標が変っているわけです。
このような中、かつてのエリートであった官僚という職業に興味を持つ人も、多様化してしまった、と言えるでしょう。以前なら小市民と言われるような人たちも、ネットを使って自分の声を出すことができるようになったという、時代背景もあるかと思います。
いずれにしても。
1990年以降の教育の当然の帰結として、東大卒官僚が減ってる。これは疑いようがありません。
今日は、集英社オンラインの記事(コチラ )へのコメント。しばらくすると記事はExpireされるでしょうから、タイトルを引用させていただいておきます。
タイトル:“東大生の官僚離れ”が加速…早慶の学生にも避けられ、厚労省若手キャリアの半数がMARCH卒レベル? 「過酷すぎる労働時間」「ヒラメ幹部に嫌気」「スキルが学べない」のは本当か?
このタイトルですから、書きたいこと万歳ではあるのですが、まずは「厚労省若手キャリアの半数がMARCH卒レベル」という部分から。
これはさすがに「東大 より 早慶、早慶よりMARCHが劣る」という意味にしか読めません。この書き方はいかがなものでしょうか?裏を返せば、東大生が官僚を務めると優秀です、と言っているようにも思えます。
このようなステレオタイプ的な表現は明らかに「学歴社会の弊害」。すくなくとも、学歴フィルタを助長しているように見えます。優秀な人材は何処にでもいます。大切なことは、その方々が「行政を担う」ことであり、東大生が官僚になることではありません。
集英社さん、まずはここから改めていきませんか?
先日。とある省の審議会Youtube配信を見ていて。
お役所仕事は、一度「局所最適」に陥ると、二度と全体最適には戻れない意思決定方式なのだな、ということに気が付きました。
1)前例踏襲が基本の会議形式で、スクラッチ&ビルドはしない。
2)経営責任に相当するものがないから、一般企業なら責任追及になる場面が存在しない(せいぜい、トカゲのしっぽ切り)。
3)所謂「お役人と上級国民」だけでの意見交換
4)そのお役人と上級国民の友人の例が「日本の傾向である」といわんばかりの意見交換(=所謂「汎化」をおこなっており、統計に基づかない)。
5)Generalistかもしれないが、素人意見ばかりの委員。
これでは、「真の改善」は望めません。日本の官僚システムは優秀だと言われていますが、その実はこの体たらく。失われた10年のあと、更に暗黒の20年に突入しているのは、官僚による審議という会議形態・意思決定方法だと断言できるような気がします。そういえば、閣議も同じような意思決定方法、、、日本の今後はますます暗くなります。
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