社会科学と自然科学
共に、真理を探究する、という点においては同じ目的である自然科学と社会科学。以前より、社会科学と自然科学の融合や差異については、幾多の議論がなされています。
経済やビジネスを「システム」としてとらえようとしたときには、避けて通れない議論の一つでもあります。というのは、例えばビジネスモデルを図示した場合を考えていましょう。その図で描かれているものは「数式では表せない」という意味では社会科学的な記述方法をしています。しかし、数量(金、モノ)などを記述した瞬間に、ある意味では「自然科学的な」理解が前提になります。つまり、「再現性がある図」という理解です。
今も書いたように、再現性のあるなし、で社会科学と自然科学を分類することは古来から行われている分類の一つ。
もう一つ違う点を挙げるとしたら、社会科学の真理は、時代によって変化する、ということでしょうか。社会システム(ここでいうシステムという言葉の定義は非常に難しいですね)が変化すると、真理=皆さんが正しいと思うこと が変ります。
これも良く言われることですが、自然科学は実験できる、社会科学は実験できない、というのがあります。でも、これはちょっと例外が多いかもしれません。生物進化の考古学や星の進化は実験できません。逆に、高速道路の渋滞予測などは、ある程度の再現性を持って論じることができるようになりました。
物理万能主義、を標榜するつもりはありませんが、自然科学を核として、その拡張で社会科学が存在する、という考え方もできます。ベルタランフィの一般システム理論に記述されているシステムの複雑さ、を参照すると判り易い。また人の心理も、人体を構成する電子の動きに還元できれば自然科学の言葉で記述できるようになるでしょう。つまり、自然科学の言葉で社会科学を論じることができるようになる。
さて。上述の「自然科学の言葉で社会科学を論じる」の部分を少し深堀します。ここで「論じる」というのは、U.エーコがいう「理論化できないものは物語られなければならない」という命題の「裏」ととられることができるのではないでしょか。「理論化できるなら物語られなくても良い」。ここでいう理論化を「数式化=自然科学」とおき、「物語られなければならない=社会科学」と考えるなら、「自然科学で説明できれば、社会科学で説明するまでもない」と書き換えることができます。
いささか暴論ではありますが、、、自然科学の真理は不変、社会科学の真理は変化がありうる、というのを別の言葉でいえば。自然環境という境界条件が変わっても、自然科学の「原理=真理」は変わりませんが、境界条件が変わることにより「社会は変わる=社会科学の真理が変化薄る」ということになります。
地球気温の変動、太陽熱、ハレー彗星、、、このようないろいろな「境界条件」が変わることにより、社会が変わっていく。社会は自然科学の原理によって動く。。。結局物理万能主義に戻っているような気もしますが、、、、と今は思っています。
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