好きな音楽(2023年2月)
最近、BGMをかけることも減ってきました。聴覚過敏が少し進んだようで、耳栓が手放せない日も多い。ベートヴェンとは逆ですね。
そんななか、応援している箏曲家渡辺由布子氏が、久しぶりにYoutubeをアップしました。今回はお弟子さんの演奏がおおいコンテンツです。でも、トリに演奏している「雪の幻想」は、さすが、の出来栄えです。町の公民館でこんな演奏が聴ける人はラッキーな人だな、と思いました。
Youtubeは、上記から音連れて下さい。
最近、BGMをかけることも減ってきました。聴覚過敏が少し進んだようで、耳栓が手放せない日も多い。ベートヴェンとは逆ですね。
そんななか、応援している箏曲家渡辺由布子氏が、久しぶりにYoutubeをアップしました。今回はお弟子さんの演奏がおおいコンテンツです。でも、トリに演奏している「雪の幻想」は、さすが、の出来栄えです。町の公民館でこんな演奏が聴ける人はラッキーな人だな、と思いました。
Youtubeは、上記から音連れて下さい。
最近、ChatGPTに関する記事を増えてきました。その中で、面白いのを発見!(コチラ 参照)。
この記事、リードが「ChatGPTに宿題やリポートをやらせる 海外では問題視、防止策は」となっています。海外で問題視されているから日本でも問題だ、ということでしょうか。また、だから対策せねば!ということでしょうか。
無風凧は思うのですが。今更のように問題視する大学は、大学失格です。世の中の技術トレンドをつかんだうえで、それをうまく活用していくことが肝要。だから、ChatGPTも「効果的に教材にする」ことが必要なわけです。
そのような意味では、「問題視して禁止する」教員は、早く大学「教員」を辞職することをお勧めします。もちろん、「大学研究者」として実績を積んでください。
無風凧の教育法では、ChatGPTを禁止していません。コピペもアリ。だけど、実力が上がる。よほどやる気が無い学生を除いて、所謂「平均的な」学生は、これまでよりも実力があがる傾向にあります。ちなみに、教員=無風凧のコストは、あまり変わっていないことを付け加えておきます。
テクノロジーの先端を使わない教育、、、そんなのは、大学教育ではありません。
久しぶりに、パスタのレシピ。
用意するもの(一人前):
スパゲティ: 細目の5分ゆでがおススメ 100g
ニンニク2欠片
黒コショウ
スライスチーズ2枚
卵1個
塩少々
オリーブオイル大匙2
簡単に言えば、ペペロンチーノ(唐辛子は使わない、最後に胡椒をかけるのですが)をつくり、最後にフライパンでパスタとソースを和える際に、スライスチーズ2枚を投入して、混ぜます。熱ですぐに解けるから簡単。 おおよそ混ざった時点で卵を一個、落としてかき混ぜます。半熟に固まったら、最後に黒コショウを一振りして出来上がり。
ペペロンチーノが、1分で「カルボナーラ」に変身!
カルボナーラと言えば、パンチェッタは必須ですが、入っていない、という意味ではカルボナーラではない。でも、本場風にチーズで濃厚な味を実現しています(本場では、生クリームや牛乳は使わず、チーズで作ります)。無風凧はこれに「チーズナーラ」という名前を付けました。
尚。無風凧はパルメザンは苦手なので、出来上がりに粉チーズをかけることはしません。
はなちゃん先生:無風凧さん、目がウルウルちてるみたい。どうちたの?
写真出典 2018年9月25日のこのブログ
今年は、花粉が猛威を奮っているようです。COVID-19感染拡大対策でマスクしていても、目は隠せません。ちょっと涙目っぽくなっています。
そういえば、、、第8波は終息したようで。無風凧が10月に予測したよりも、2週間早く大きくなり、2週間早く収束。ピークが予測ほど大きくならなかったのは、自宅療養型でカウントされない人が多かったからではないかと想定していますが、それを論証するだけのデータが揃っていません。また、死亡者数ピークも1桁小さかったのですが、これも弱毒化とワクチンと、でしょう(論証するだけのデータが無いのはこちらも同じ)。
さて、ここで恐ろしい予測します。ここ3年、超過死亡数が異常値です。おそらくはCOVID-19に起因する様々な死因によるものと考えられます。しかし、これがもう数年続くと、、、つまり、それが「実績」となっていくと、今の数値でいえば超過死亡である値が「正常死亡数」になっていきます。統計とはそういうものです。
COVID-19で一定数の方がなくなる。それが正常になっていく日が近いということができます。もっとも、インフルエンザ、がん、結核、、、その他いろいろな死因も同様に「正常」とみなされるようになっているわけですから、俯瞰して考えれば、原因が一つ増えたにすぎません。
土曜日は詰将棋の日!
無仕掛け還元玉で、玉方の駒は動かない。
タイトル:味方も出現
これまでの「出現マジック」作品は、詰方の駒だけが出現していましたが、この作品では玉方も出現します。という訳で新境地の開拓です。
途中、大駒の清算が入り、しかも手順前後の「大傷」があります、、、が、出現マジックとしては綺麗に決まったかな、と思います。
そうそう。配置駒に成駒を使うのが嫌いな無風凧。この作品は、成銀とと金 が入っています、、、なぜかって? 詰上がりで、7種を出したかったから。ただそれだけです(本当に意味が無い)。、、、あ、これ、ヒントになっています!詰上がりは、「飛車、金、桂」の三枚が増える、ということがもろばれです(笑)。しかも、玉方も駒が増えることが分かれば、清涼詰になっていることもばれます。これだけのヒントで、詰上がり図が随分絞られますね、、、
共に、真理を探究する、という点においては同じ目的である自然科学と社会科学。以前より、社会科学と自然科学の融合や差異については、幾多の議論がなされています。
経済やビジネスを「システム」としてとらえようとしたときには、避けて通れない議論の一つでもあります。というのは、例えばビジネスモデルを図示した場合を考えていましょう。その図で描かれているものは「数式では表せない」という意味では社会科学的な記述方法をしています。しかし、数量(金、モノ)などを記述した瞬間に、ある意味では「自然科学的な」理解が前提になります。つまり、「再現性がある図」という理解です。
今も書いたように、再現性のあるなし、で社会科学と自然科学を分類することは古来から行われている分類の一つ。
もう一つ違う点を挙げるとしたら、社会科学の真理は、時代によって変化する、ということでしょうか。社会システム(ここでいうシステムという言葉の定義は非常に難しいですね)が変化すると、真理=皆さんが正しいと思うこと が変ります。
これも良く言われることですが、自然科学は実験できる、社会科学は実験できない、というのがあります。でも、これはちょっと例外が多いかもしれません。生物進化の考古学や星の進化は実験できません。逆に、高速道路の渋滞予測などは、ある程度の再現性を持って論じることができるようになりました。
物理万能主義、を標榜するつもりはありませんが、自然科学を核として、その拡張で社会科学が存在する、という考え方もできます。ベルタランフィの一般システム理論に記述されているシステムの複雑さ、を参照すると判り易い。また人の心理も、人体を構成する電子の動きに還元できれば自然科学の言葉で記述できるようになるでしょう。つまり、自然科学の言葉で社会科学を論じることができるようになる。
さて。上述の「自然科学の言葉で社会科学を論じる」の部分を少し深堀します。ここで「論じる」というのは、U.エーコがいう「理論化できないものは物語られなければならない」という命題の「裏」ととられることができるのではないでしょか。「理論化できるなら物語られなくても良い」。ここでいう理論化を「数式化=自然科学」とおき、「物語られなければならない=社会科学」と考えるなら、「自然科学で説明できれば、社会科学で説明するまでもない」と書き換えることができます。
いささか暴論ではありますが、、、自然科学の真理は不変、社会科学の真理は変化がありうる、というのを別の言葉でいえば。自然環境という境界条件が変わっても、自然科学の「原理=真理」は変わりませんが、境界条件が変わることにより「社会は変わる=社会科学の真理が変化薄る」ということになります。
地球気温の変動、太陽熱、ハレー彗星、、、このようないろいろな「境界条件」が変わることにより、社会が変わっていく。社会は自然科学の原理によって動く。。。結局物理万能主義に戻っているような気もしますが、、、、と今は思っています。
まるたろう:そろそろ、僕も引退。次の「毎月犬」はだれだろうね?
写真出典: 自前のM5
まるたろうが毎月犬に就任してもう2年が経ちました。そろそろ後進に席を譲らなくてはならない時期かも、です。
ところで。成田助教授(米イエール大学)の発言がバズりましたね。「年寄は集団自殺」は、メタファーにしても少し過激すぎます。ただ、養老猛氏の「世の中はじゅんぐり」発言(コチラ 参照)には、賛同しかねます。今の70~80歳は、ベビーブーム+「医療の進歩で元気な時間が長い」という意味で、「順繰り」理論を逸脱しています。いずれ棺桶型になると言われている人口の年齢分布に、「役職」をいれると、順繰りが成立していないことになります。ですから、養老さんのじゅんぐり発言には、賛同できません。
大企業では、役職定年、というものを用いています。これは、ある意味でじゅんぐりを「まわす」ための施策。この役職定年のようないみでの「集団自殺」=「順繰りを加速する」必要は、皆さん賛同できるのではないでしょうか?
この週末。久しぶりに映像編集作業に埋没していました。
以前は、Ediusを使っていたのですが、ずいぶん古いPCにインストールしたもの。今回はPowerDirectorでの編集にしました。
自撮講義などは、PowerDirectorでお手軽編集していたので、実戦配備しても問題ないだろう、、、という判断だったのですが。
実際に作品を作ろうとすると、色々小さな点でEdiusとPowerDirectorの違いが発覚。特に、
1) サムネイル画像の音声と映像の同期がとれていないことがある(編集するときに、ひやっとする)
2) マルチカメラ編集が4台までしか対応していない
は、閉口しました。まあ、慣れ、の部分も大きいとは思います。
PCが新しいので、レンダリングは4倍くらい速く、こんなことならもっと早くPC買い換えておけばよかった、、、と思っています。
岸田総理の「情報系大学の定員増」を始めとして、最近は情報系エンジニア不足が叫ばれています。加えて、文科系大学でもデータサイエンスを!という風潮が始まっています。一橋大学のデータサイエンス学部がその嚆矢でしょうか。
データサイエンス、と言えば新しい学問のような気がしますが、一昔前の言い方をすれば「統計学」と言ってよいでしょう。統計学からデータサイエンスへの進化は、ソフトウエアの進化と実社会で扱われるデータが大きくなったこと、それよりも「SNS等で拡散した」ことによるものでしょう。
ここで大切なことは。
いま言われているデータサイエンスは、「道具の一つに過ぎない」ということ。道具を使いこなせるようになることは必要ですが、その先の「応用」すること、もしくは新しい道具を作ることにつなげなくてはならない、ということに気が付いてほしいと考えます。
データサイエンスを否定するものではありませんが、例えば分数の足し算などの「考え方」をきちんと理解することは重要です。その意味では、寺子屋の「読み書き算盤」は今も通用する「基礎」です。読むことが出来なければ新しい知識を得ることもできない。書くことが出来なければそれを伝えることもできない。計算はすべての「数量化の基礎」です。これらをもう一度見直す時期にきているのではないか、と感じるのです。
Fランク大学のデータサイエンス学部を増やすより、中学の「数学」教育の徹底が日本の国力アップには必要だ、という主張をして、今日のブログを終わります。
先日。コーヒー豆を買いました。それも、間違えて「豆」のままでの購入。最近は面倒くさいので「粉に挽いてあるあるもの」を購入していたので、無風凧にとっては「禍(わざわい)」だと思っていました。
仕方なく、電動コーヒーミルを取り出し、5年振り位に挽きたてのコーヒーを淹れました。
淹れる瞬間、、、正確にはお湯を注いだ時の「豆の膨らみ方」の違いに驚き。「そうです、この膨らみ!」と嬉しくなりました。
出来上がった一杯のコーヒーは、絶品。福を感じました。これこそ、禍転じて福となす、ですね。早速、二杯目を淹れました。
東京都が、面白い発表をしました(コチラ 参照)。いわく
「東京都教育委員会は16日、学校の部活動を外部の団体や人材に任せる「地域移行」を、2025年度末までに全ての公立中学校に広げる方針を明らかにした。(上記より転載)」。
教員=ブラック、を解消するための施策ですが、これを読んで納得する人はどの程度いるのでしょうか? これを決めた会議のメンバー以外は「皆無」ではないかと思います。いや、メンバーでも「本心から賛成している人がどれだけいるのか」と思えるほど、ダメダメです。
まずは、「予算はどうしますか?」。
その次に出てくるのは「けがなどの責任範囲はどうなりますか?」
さらには「だれが受けて受けてくれるのですか?」
画餅の典型みたいな方針です。学生が作る事業計画書や提案書でも、もう少し「実現可能性」を検討したうえで発表します。その意味では学生レベル以下の方針発表です。
ここで指摘ばかりしていても仕方がないので、無風凧的な解決策骨子。国も地方公共団体も予算化する気が無いから地域移行を考えている、ということを前提に
1) 企業のCSR活動の一環として、条例もしくは法令化する。その場合、かかった費用の控除など、インセンティブを与える。
2) 現状の教員が部活動の指導をする場合は、その企業の従業員(非常勤?嘱託?いろいろな形態が考えられます)として指導を行う。
3) 責任範囲は、きちんと時間で区切る。部活時間の責任は当該企業が担う
ここまでは、だれでも考えることができると思います。ここからが真骨頂。
4) ふるさと納税 のように、どこの地方にでも出すことができる。ただし、どの学校の担当になるかは、3年単位でくじ引き。(3年に一度の入札)。参加企業数が少ない場合は、地域担当(複数学校を面倒見る)などの工夫をする。
5) 胴元企業が、「参加企業を募って部活運営」することも可能。(部活扱う起業、の出現が可能)。
このようにすると。大企業が参加する学校と小企業が参加する学校との間で、活動レベルに差が出てくるのではないか、と考えられます。しかし、その程度の差は「今でも」起きているわけです。だから、現状より悪くなることは無い。
これらに数値目標をつけると、事業計画に一歩近づきます。
(このアイデアは、障碍者雇用+ふるさと納税、にヒントを得ていますが、実際のアイデアの源泉は異なります。無風凧の中学の時の経験からです、、、が、その話は改めて。)
いかがでしょうか?
岸田総理が、「東京23区のデジタル系大学の定員増を容認」という発言をしました(コチラ ほか参照)。
いま、デジタル人材が足りない、、、と言われていることは皆様もご存じの通り。その上で、岸田発言は「天下の愚策」と断言します。岸田さんのそもそもの間違いは、大学を教育機関だと思っている、ことにあります。大学は「研究機関」であることを完全に忘れている発言としか思えません。
いま、社会で求められているデジタル人材は、どのような人でしょうか?
1)デジタルやデータサイエンスの素養を持った人、であり、これらは昔の「読み書き算盤」と同じ意味でデジタルに親しんでいる人。
2)人工知能・機械学習を中心としたプログラムを書くことができる人
3)次の世代のデジタル、を考えることができる人。
この3つに集約されます。この中で、3)を除くと、大学で行う「研究の対象」にはなりません。1)は言わずもがなですが、2)も専門学校で繰り返し学習してスペシャリストになる類のものです。デジタル人材不足の中で、2)の部分は大学教育で育てるものではない、と無風凧は考えます。
その上で。
定員が増えると、「情報系学部」というブランド価値が落ちます。ブランド価値が落ちて、猫も杓子も情報系学部に通うようになると、結局Fランク情報学部が増えていくだけ。というよりは、高い能力を持っている輩が他学部に流れていく危険すらあります。如何に愚策か、がお判りいただけたと思います。
岸田さん、そろそろデジタルネイティブ世代にバトンタッチされるというのはいかがでしょうか?
最近、なにかと噂になるチャット GPT。先日も面白い記事を発見いたしました(こちら参照)。この記事によると、チャット GPT の答えとして、韓国語の起源は日本語にありだということだそうです。これを見た韓国人はきっと、プライドを大いに傷つけられることでしょう。技術的科学的に言えば、まだ途上であるチャット GPT、寛大に見て欲しいなとも思います。
ところで。
チャット GPT の回答の元になっているのは、ネット上はじめとしたチャット GPT が集めた色々な情報です。この集めた情報というところに注目。正しい情報が集まっていなければ、チャット GPT の回答は間違えてしまうということです。基本的には多数決原理で決められているチャット GPT の知識。上書きすることは簡単です。
例えば。
世界中の人が、100年前の地球に宇宙人がいた、と書けば、それがあたかも事実のように認識されます。歴史が書き換えられる訳です。
源義経がジンギスカンになったというのが正史として認められるようになる日が来るかもしれないということを意味しています。織田信長も本能寺で死ななかったのかもしれません。
このように考えてみると。正しく客観的な歴史とは何かということに疑問を持たざるを得ません。いやいや、歴史はヒストリー。語源としてはHis Story=彼の話。誰かが語ってくれるものなのかもしれません。つまり正しく客観的な歴史などというものは存在しないということになります。
機械学習・人工知能に頼りすぎるのも危険だなと感じています。
ソースネクストもやってくれましたね、個人情報流出(コチラ 参照)。記事によると、実害(身に覚えのない請求含む)を受けた被害者もいるそうです。
ネットワーク社会では、どんなにセキュリティを高くしたところで、可能性をゼロにすることはできません。というか、個人情報を預かった時点で、「100%の安全はない」という認識が必要です。ISO27001(情報セキュリティマネジメント)を取得しても、「漏洩やクラッキングがおきない」わけではないのです。
今回のソースネクストの場合。カードの停止とつくりかえ、が必要なようです。それにかかった費用はソースネクストが負担する、となっていますが、その作業に要した時間、そして当該カードを利用していたほかの決済機関の情報変更に要する手間、などはどうなるでしょうか?、加えると、「心理的」な障害を受けてしまう方もいらっしゃるでしょう。少なくとも、無風凧は心配性ですから、PTSDを発症するかもしれません。ここまで考えると、カード書き換えのひようなど微々たるものです。
以前から無風凧が提案しているのは、NR(Natural Risk)以下はリスクヘッジを金額補償する事。個人情報が流出した場合は、1情報あたり10万円の補償をする。そして、当該企業はその金額を支払うだけの「保険」に入っておくことを義務付ける。個人情報流出自体にこのようなリスクヘッジがひつようではないか、と無風凧は考えているわけです。
繰り返しになりますが。リスクゼロは絶対に実現しません。悪意の人が居なくても、流出が起きます。二度と起きないような対策をおこなうことも100%不可能です。だからこそ、「金銭的な補償」を行う必要があるわけです。この補償には上述のように慰謝料尾含みます。もちろん、損害は賠償しなくてはならないことは言うまでもありません(注)。はやく、そのことに気が付いてほしいと思っています。
注: 犯罪被害の場合、被害額は犯人による賠償が基本です。、、が。情報漏洩に関しては、情報を集めていた企業も賠償責任を負う必要があります。また、慰謝料は企業の責任で支払う必要があると考えています。
新型コロナ、インフルエンザ、そしてそろそろ花粉の季節です。
無風凧は、数年前から「若干」の花粉症ですが、今年は昨日あたりから目がかゆい。もしかしたら花粉?、、、と戦々恐々としています。
戦々恐々、と書いて思い出したのですが、戦線といえばウクライナ。最近、あまり人口に膾炙しなくなりましたね。ロシア情勢全体も、戦線が長期化してニュースバリューが乏しくなってきたのでしょうか?
長期化で思い出すのは、東京2020オリンピック(正確には2021ねんですが)の談合疑獄。誰が裏で糸を引いているか、、、その本丸まで攻めることができればいいのですが。今、表面化しているのはすべてトカゲのしっぽ、なんでしょうね。どこかで本丸のしっぽを踏んだ可能性が高い。だから切られた。
本丸?まる、、、まるたろうは、無風凧のパソコンの上で背伸びしています。笑。(写真はまるたろう)
無風凧は、基本として、インスタント食品や冷凍食品をたべることはありません。
ですが。
先日、「地域特産のインスタントラーメン」をお土産でもらいました。久しぶりに食べてみると、、、これが美味しい! 驚きです。麺が、ラーメン屋の麺に近く、インスタントとは思えない!
随分進化したものだなあ、、、と思いました。
今回は、いささか「キャッチ―」なタイトルをつけてみました。
風が吹けば桶屋が儲かる、ほどの複雑怪奇な話ではないですが、ちょっと頭をひねってみて下さい。
「GDPが上がらない」→「金銭的付加価値が上がらない」→「人件費をけちる」→「監視がいきとどかない」→「スシローペロペロ類似事件が起きる」
と書けば、なるほど!と膝を叩く人が多いのではないでしょうか。
機械化がすすみ、AIの進化もあり、どんどん「人が介在しない」世の中になっています。その分、以前なら「人目を気にして」できなかったことや「注意される」ことが、おざなりになっています。企業側の「人件費削減」も、ぺろぺろ事件の一員だと無風凧は考えるのです。
とはいえ今後、、、画像認識技術が発展して、カメラで監視されながら「その場で警報が鳴る」ような仕組みが実現されることでしょう。これにより、ぺろぺろ事件は少なくなります。バイトテロも、24時間監視のもと、減っていくでしょう。そうやって、日本はGDPを落とし、国際競争力がなくなっていく。
どこかで、この負の連鎖を断ち切らなくてはなりません。それは、無風凧の世代の責務でしょう。上の世代は「薄利多売思考」「経営は効率化」という宗教から抜け出せそうにありませんから。
今週は、完全に「お遊び」です。この詰将棋、初期配置の駒に「確定」しているものが皆無なのです。すべて何らかの形で変更可能。でも、「詰手順は一種類です」
まず、この詰将棋の見方を説明します。
1) 玉は、A と書かれている3か所のどこかにあればOKです。計3種類。
2) 5一に効かせるためには、Bに銀を置くか、BかCに角を置く。また、この銀か角の配置は、飛車の遠打を制限しています。計5種類
3) 11月12日に発表した「無仕掛け還元玉」を参照してください。この盤面にある5枚の駒は、何れも「変更可能」です。計375種類。
つまるところ。
「玉も含めて、盤上に確定している駒は一枚もない」詰将棋です。
場合の数は、
375(初期配置の5枚のパターン、11月12日の記事、および2018年9月19日の記事参照)
×5(角と銀)
×3(玉の場所)
×2(左右反転)
= 11、250。
でも、詰手順は一種類です。面白いと思いませんか?
こんなお遊びに付き合っていただける方は少ないかと思いますが、、、無風凧自身は、とっても満足しています。
# 昔は「壁詰将棋」と呼んでいましたが、最近は「VUCAの時代」と呼んでいます。
法律は、時代によって変わるもの、です。
これは「善悪」や「国民の合意」が時代によって変わるからです。技術しかり、天候しかり、そして「想定外の何か」の為に正否が反転することがあります。
憲法は。今の日本における憲法は、最高法規です。だから、手続き的な意味で硬性をもっています。つまり、慎重な判断が必要だということです。
憲法9条。つまり自衛隊と国衛の問題ですが、、、これは、第二次世界大戦の反省から「武力を持たない」という判断のもとに制定されました。もちろん、第9条の本文にそのような背景は書かれていません。だから、9条の本文の「解釈」をめぐって論争がおきます。時代は、連合国vs日本の時代から冷戦時代を超えて、GAFAmの時代になっていると言ってよいでしょう。そのような国際情勢の中、9条の解釈が変わるのでしょう。その意味では、9条はいつまでも変わらずに議論が続く、のが正しい姿なのかもしれません。
では憲法24条。婚姻は両性の合意、という条項です。これも24条本文の解釈論に終始するような気がします。
LGBTQの問題は、国際的に重要な問題であるとともに、生物の種である人間、の根源問題にも根差しています。「人類」が生まれて以降、子孫は両性の合意で生まれています。これは絶対に避けることができない事実。でも、婚姻 というのは「人間が決めたルール」にすぎません。成人の年齢を2022年4月をもって18歳としましたが、これと同様に「婚姻」という言葉の定義を変更することは、可能です。変えられるものと変えられないものの線引きが「簡単」にできます。
その意味で。憲法の中で「変えることができる」のは24条の方が先だと思います。
婚姻と結婚 という言葉を分離する。例えば下記です。
婚姻は、両性。下記結婚を含み、両性の合意のみで行われる。
結婚は、自由性。遺産や納税を含む責任の範囲。
これでどうでしょうか?岸田さんのいう「社会」は、こういうように変わっているのではないでしょうか。
最近のバズワード「リスキリング」。
テレビ報道などをみていると、「リスキ・リング」と発音している人が多いようです。でも、正しくは、「リ・スキリング」。英語で書けばRe-Skillingであることはみなさんご存じの事。日本語の「音節」と英語の「音節」の違いでしょうか?
所で。
Skillって、「技能=手に付ける職」のことをさしています。スキルアップと言えば「技能をあげること」。リスキリングと言えば、スキルの再取得を意味しています。
昔。算盤。でも、電卓の時代になって「電卓を使えるようにリスキリング」した先輩世代は多いでしょう。その後、エクセルを学習するためにリスキリング。今は、エクセルの次ということで、Python Baseのスキルでしょうか?LowCode系のはなしでしょうか?
無風凧は思うのですが。
スキルは、必要に応じて身に付けるもの。必要なスキルを身に付ける、という「手法」を身に付けておけば、時代においついた仕事ができる、と思うのです。つまり、リスキリングのしなくても良い手法の修得。
少し筆力が足りません。説明が伝わっていないかもしれません。常時スキルアップする「手法」を知っておけばリスキリングは不要になると思うのです。
少し突っ込んだ話をすれば。リスキリングブームは、上述の手法を知らない「労働者」を「雇用する経営者」、そして「高齢者」に対して「自分たちがマウンティングしていたい為政者」にとって、非常に好都合なブームなわけです。一つには、「リスキリングしろ」という人は「スキルアップをする必要が無い人」が多いです。これは周知の事実。
ということで。
リスキリングを越えた「手法」の取得を目指しましょう!
# 笑い話ですが。TVなどでリ・スキリング とリスキ・リング の聴き比べをすると面白いですよ。リ・スキリングと話をしている人は、持論を持っている人。リスキ・リングになっている人は大衆迎合な人が多いようです。
もう数日後に迫ったことなんですが。
無風凧は中学生を前に「ビジネスとは何か?」の授業をしなくてはなりません。気安く引き受けたのですが、意外と難しいことに気が付きました。
何が一番難しいか。
それは、ビジネスをほかの言葉で言い換えることができるか、ということに尽きます。
まず。中学生だと、アルバイトをしてる学生も少ないでしょうから、対価を得る、ということを共有事項として話をしてよいか、という問題が起きます。
大人にとっては「生活のためのビジネス(上述の対価を得る)」と「Own Business」という時の「ビジネス」ということばの違いを説明できると思うのですが、中学生にこれが伝わるか。彼rのもっている「世界」の中にある「お金(経営資源の一つという意味のお金)」は、趣味に使うことができるものであることが多いだろう、と思われます。こうなった時点で、「お金」というものの「本質的理解」も異なっていることになります。
更には、「経済行動」という言葉、、、、ついつい言っちゃいそうですが、中学生に理解してもらうことができるか。D.コースのコスト理論や経済人仮説などを持ち出すまでもなく、経済行動のという音場の定義は難しい。定義なんか考えるから難しくkなるんだ、という声が聞こえてきそうですが、公理系主義者の無風凧は、このあたりの言葉の定義がずれると、頭の中は大パニックそれ以前に中学生に伝わらなければ、授業を行う意味がありません。
中学生への授業は初めての経験。次世代・次々世代を担う若者の前で話すことは、本心から楽しみではあるのですが、、、産みの前の苦しみを味わっています。昨夜(今夜?)も眠れなかった。
最近、圏論を勉強します。と言っても、圏論自体の研究を目的としているのではなく、圏論の応用、それもビジネスモデルの記述方法として使えないか、という視点です。
元々、PICTやPAD(もう、覚えている人は少ないかもしれません。Program Analysis Diagram)、UML、系統樹などで、ビジネスモデルやビジネスプロセスの可視化していたのですが(注)、圏論的な考え方を組み入れてみよう、ということです。
圏論的(注2)にビジネスモデルを記述する方法は、2つあるのかなあ、、、と考えます。一つは、グラフ理論的に圏論を使う、というと身もふたもありませんが、現代のプログラミングに応用するばあいなどは、こちらです。
もう一つは、ビジネスもしくはビジネスモデルが代数系を形成するかどうか、という視点です。ビジネスモデルというDomain がモノイドを形成しているか、という考え方。これは、代数としての構造をさがす=距離を定義する、ということになるので、ビジネスモデルの差異の定量化につながるだろうな、と予感があります。
この二つは、ともに圏論の考えを使っていますが、似ているようで似ていない2つの考え方だ、と今は思っています。個人的には後者が面白くなってきています。
注: もちろんではありますが、何を表現したいか、で最適な手法は異なります。
注2: ビジネスモデルが正確に「圏」を構成しているか、と言われると、考え方による、という答えになります。ただ、DiGraphの圏と「時間依存のないビジネスモデル」は圏同値だと思っています。時間依存性を圏の中に入れる方法は、まだ勉強中です。
久しぶりの料理レシピ。と言っても、随分けち臭い料理です。
先日、タラの煮つけを作ったのですが、その時の煮汁が美味しくて、もったいない思い。でも、タラだからなあ、、、と思って考え付いたのが、煮豚風照り焼き。ポークステーキ用の厚さ1㎝ほどの肉を、照り焼き風に煮詰めました。
両面に軽く焼き目を入れたら、煮汁をを掛けて煮詰めるだけ。
これが非常に美味しい。タラの臭みは全然気にならない。得した気分です。
そろそろ2023年統一地方選挙。辻説法ならぬ「政策語り」も、少しづつ目につき始めました。
最近、無風凧は強く思うのですが(以前にも書いたことがありますが)、政党って何なんでしょうね?
1)政党に所属しないと当選できない
2)党の主張が必ずしも政治家としての個人の主張と一致しているとは限らない
つまり、当選するために政党に所属する。所属した時点で、政治家としての主張を曲げる。
これは、無風凧にとっては大いなる矛盾以外の何物でもありません。きれいごとかもしれませんが、政治家は持論・政治論によって選挙でえらばれるのが正しい姿です。宗教団体は言うに及ばず、様々な利益団体の「代弁者になること」は論外ですが、当選のために持論を曲げるのは同じ程度にありえない。
つまり、政党が大きくなることにより、「まともな議論」すらなされなくなります。結果は、、、(途中は端折りますが)独裁になります。ん本が独裁国家になっていく、危惧があります。
政治家にもっと自由な発言、それこそが真の政治を実現する第一歩だと思います。今の日本に、真の政治家はいない。それが日本の最大の課題です。
土曜日は詰将棋の日!
コの詰将棋は、皆様、ぜひ「柿木」などのソフトでご鑑賞ください。初期場面と詰上がりを一瞬で往復できる機能があれば、「美しさ」をすっごく感じてもらえると思います。ちょっとだけ自信作、です(余詰の検索には自信ないのですけど)。
最近力を入れている「出現マジック」です。詰将棋おもちゃ箱に採用して戴いた2023年賀詰(先週の詰将棋,コチラ)と、以前発表した「無仕掛けの出現マジック(コチラ)」を接続したものです。
コの詰将棋、34の金だけは変更することができないので「VUCAの時代(つまり、すべての駒種の変更可能)」にはなっていません。。。残念。
心残りは、、、14の銀が生銀、ということでしょうか。成銀にできたらもっときれいだったのですけどね。
初手:22銀同玉で詰みが無いことを祈っています。(柿木正方向2時間で解無し、で発表に踏み切りました。)
3手目:以遠打
4手目:限定
11手目:成限定
国、というか、為政者という意味での国。法律や制度を作ることができる主体としての国。
この「国」という組織は、憲法によれば「国民主権」ではありますが、しかし、その一方で「混乱を避けるためのルールつくり」が許されている唯一の機関でもあります。
例えば。刑法によって、「殺人」は「犯罪」として決められる。情状酌量その他があったとしても、人を殺せば「殺人罪」が適用される。そして、法律で決められた範囲の中で「量刑」が決められる。
これが、「混乱を避けるためのルールつくり」の一入れです。自動車に乗るときにルールは道路交通法、大学を作るときのルールは大学設置基準というように決められていきます。
今回。文部科学大臣の永岡桂子氏は、それに反することを発言しました。曰く、
「卒業式でのマスクの着用に関しましては、マスクをしなければ嫌だと、出席したくないというお子さんはマスクをして、そしてマスクは外して行きますとご家庭で決められた方は、マスクを外しての参加となろうかと」(コチラ より引用)
いま、マスクをすべきかすべきでないか、は世論を二分しています。いろいろなところで「混乱」が起きています。飛行機に乗る際にマスクを求められたという理由で、飛行機会社を提訴した例もみなさまご存じでしょう。街中でも同様の混乱をこえていさかいに発展しています。
とすれば、国としては「混乱を避けるための施策」をせねばなりません。ここで「個人の自由に任せる」が混乱をさけることにならないことは火を見るより明らか。ここで必要なのは「線を引くこと」すなわち「ルールをつくること」。もうすこし具体的に言えば「マスクを必須とする」「マスクは不要とする」のどちらかです。
これをしないのは、国民に寄り添っているようんに見えて、実は責任転嫁をしているにすぎません。
国民の代表たる国会議員、そして、その中でも選抜された「大臣」ですから、このような簡単なロジックはご理解いただけるでしょう。
是非正しい「判断」を下してください。
え?ただの個人的な発言だって? 影響力は甚大ですよ、永岡さん。
# 無風凧は、この記事で「マスクをするべき」「しないべき」の議論をしたいわけではありません。どちらかに決めないと、混乱がおきますよ、という問題提起をしたいのです。
最近では、東大も推薦入試を始めています。大学によっては、新入生の大半が推薦、などというところもあるようです。
推薦入試で入学してきた学生に対する評価は、一昔前と今では随分変わってきました。
以前は、一般入試組が圧倒的に実力があると言われていて、推薦組はどうかすると肩身の狭い思いをしていたようです。しかし、最近は「推薦入試組の方が優秀」というのが定説になりつつあります。
その背景は、
①浪人したくない → 推薦で合格してしまえ
が背景にあるのでしょう。そのため、高校でそこそこ優秀な学生は、推薦入試を受けることになります。推薦は、一般入試より随分早く行われますから、一般入試の時期には「①で優秀な学生」を除いた学生が残っている。よって、昔より「一般入試を受験する優秀な学生の割合」が減っているのです。これが、推薦入試が優秀、と言われるからくりのようです。
では、本当に優秀でしょうか? 大学教員として現場に立っている無風凧にとっては、大いに疑問です。Z世代の影響もあるのでしょうが、、、
A. 言われたことはするけど、言われていなことはしない(自発性・自立性が弱い)
というのが、最大の懸念。これは、
B. 学校では、「内進点を稼ぐために」「違反をしない」ことや「出過ぎたことをしない」癖がついている
ためではないかと分析しています。だから、発展性が無い。 記憶はするけど理解はしない。資格試験は通るけど研究はできない。優秀な解決者にはなれるかもしれないけど、新しい価値を見つけることはできない。自分から課題を見つけることができない。
これらを総合すると、無風凧的には「いい子ではあるけど優秀ではない」ということになります。
優秀、という言葉の指す像が違うのかもしれませんね。官僚主義的な優秀と、研究者・起業家的な優秀は、おのずと違います。大学という組織は、とどのつまりは「文部科学省」の下部組織。官僚主義的な優秀者が求められ、教員もそのような評価をしている。
結果として、いま、世の中で求められれている「アントレプレナー」は育たない。ノーベル賞級の研究者も育たない。そういう輪廻に陥っているように考えます。
推薦入試を止め、
全入としたうえで、
単位取得条件を厳しくして(絶対評価として)
「卒業者をしぼる」。
如何でしょう?これくらい思い切ったことをしなければ、優秀な学生は育たない、と無風凧は思っています。
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