都立高校入試のスピーキングテスト(ESAT-J)問題
都立高校入試のスピーキングテスト反対の世論が強まっているようです(コチラ など参照)。
反対運動は多いことは、昨日の記事で書いた「ルールの慣性法則」で説明がつきます。各論として、ESAT-Jが色々な課題を持っていることは理解できますが、それらはすべて「過去のルールと比較して」です。しかも「悪くなるかも」という推測による反対も多いので、慣性法則そのものです。
その意味では、為政者側の「戦略」が悪かった、つまり、官僚主義的権力主義的に押し切ることを念頭に実現を目論んでいたために、民意が反発するという結果に驚いているかもしれません。というのも、グルーバル化の流れ、テクノロジーの流れの中において、英語のスピーキング能力が必要になることに反論がある人はいないでしょうから。
東京都の大きな失敗は、「民意を巻き込めなかった=目標の共有が出来なかった」以外の何物でもありません。英語のスピーキングテストの必要性をまず合意をとり、そのための手段を議論し、そして実施にこぎつける、という当たり前のお作法を守ることが出来なかった。それが、今回の騒動です。
資本主義・官僚主義では、責任の在り処が必要。言い換えれば、責任者の独断が優先されることがあります。勿論それを否定するものではありませんが、現代組織論では、「組織の合意をとる」ところまで含めて責任だと考えられるようになってきました。Teal組織も、メンバー全員の合意をとるための組織形態です。
政府・行政も、民意を反映させるための新しい会議形態、もしくは公聴制度を作らなくてはならない時期が来ているのではないでしょうか?
<追記>
委員会形式で、委員会が分担として主に議論をすることは悪いことではありません。しかし、公聴会の開催と、底での意見に対する説明責任は存在します。返答する、というのは説明責任ではありません。説得までふくめて説明責任です。
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