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平等と差別と区別

いま、ここに100人います。100人に同じ量と内容の料理が出ました。これは、果たして平等だといえるでしょうか?

多く食べたい人には、少ない、という不満があるでしょうおし、少なくて済む人には多すぎる、となるでしょう。それ以前にお肉を食べることができない人には、食べられないものが出て不満でしょうし、宗教上の理由で食べられない人が出るかもしれません。

こうなってくると、平等じゃないな、と思う人が出てくると思います。

では。宗教上の理由で肉食ができない人には魚を出すという「区別」をするとしましょう。単に嫌いな人は肉を食べなきゃいけないのに、宗教上なら食べなくて良い、というのは、嫌いな人にとっては不愉快に思うでしょうね。

このように考えていくと、「いろいろな区別」をつけたとしても、それも「不平の種=不平等」ということになります。

特別支援学級に行かせることが「人権侵害」という記事が出ました(コチラ など参照)。これ、当事者にしてみれば人権侵害と受け取ることは理解できます。でも、いまは、飛び級することができる児童生徒もいます。その子たちと同列に扱われないことは人権侵害とはいわないのでしょうか?

加えると、飛び級できる実力がある人が普通教室に通うことは、普通教室に通う学生特別支援学級に通わせていることに近いと比定ことができるかもしれませんが(ちょっと暴論です、深謝)、これが「人権侵害」と言われることはありません。

さらに言えば。上記は、普通教室と特別支援学級の2つですが、その途中のクラスに相当する人もいます、、、とすれば、一人ひとり、オーダーメイドの仕組みが必要ということになります、、、

ということで。真の意味で、全員が満足するような平等は、実現のしようがありません。あとは、どこに線を引くか。これは、改めて議論しましょう。

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