安倍元首相の国葬に思う
今日、安部元首相の国葬が行われました。これだけ世論が反対している中での挙行は、憲政史上稀にみることではないでしょうか。
無風凧は、この国葬が閨閥・世襲政治の「最後のアダバナ」ではないかと感じています。というか、最後にしてほしい。
大きな課題、、、国政だけではなく、今の日本全体の課題と言えますが、、、は、限定合理性、ということに集約されるでしょうか。閨閥も世襲も限定合理性を強めていることは、読者の皆様はご理解いただけると思いまうs。
為政者に限らず、人は自分の持っている情報だけで判断します。自分の周りの人の意見が「世界の全体」と思ってしまう傾向があります。これは、人が人である以上、仕方がないことです。社会科学において絶対の客観的判断はできない、ということです。というか、「判断」という作業が入った時点で、どんなに客観的なデータを集めたとしても、判断者する際に「判断者の気持ち=限定された情報に基づく合理的な解釈」が入ります。だから、どこまで行っても、限定合理性の呪縛から逃れることはできません。
今回の国葬、4割もの欠席者がでたということで、規模も6000人予定が4200人程度だったということですが、このいつ意地をもってしても、どこかで限定合理性が作用したために、誤判断至ったことは、明白でしょう。
この呪縛から離れるためには、究極には「すべての判断=影響の及ぼす範囲」を個人に限ってしまうことしかないのですが、人は社会的な動物ですから、個人で生きていくことはできません。
結局。限定合理性の呪縛から逃れるための「コミュニティ(限定合理性の影響を及ぼす範囲)を小さくすること」と、社会的動物としての人類が「生きていくために必要なサイズまで、個人からコミュニティの大きさを大きくする」ことの、接点を見つけるしかありません。
自分のことは自分で決める。それが実現できる社会であれば、今回の「国葬問題」は起きなかったことと思います。日本の仕組みを改善する時期が来ています。
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