言葉の定義 について
いよいよ新学期が始まります。大学教授の顔の無風凧は、新入生受け入れの準備をしています。先日も書きましたが、今年の一年生は全員「成人」です(コチラ 参照)。去年の学生と、おそらくはほとんど同じ生い立ちをしてきた彼等彼女等が、いきなり「大人」。教員として何をかえなくてはならないのか、考えてしまいます。
ただ、これだけは確実に言えること。最近の学生は(この言葉が出てくるようになっただけ、無風凧も年を取ったということですね)、昔の学生に比べて「理解力が落ちています」。その反面、表現力が随分高いな、と思う学生が増えています。
理解力が落ちていると感じるのは、文章を読ませると一発でわかります。大学一年生に2000字程度の文章を読ませて、その主張をようやくせよ、というような課題。ある学生は、入試の延長のように線を引いて、キーワード抽出する。書いてある要約は一見素晴らしいのですが、質問すると、前提条件や背景すら答えられない。それどころか、「反対の主張を書いてみよ」というと、支離滅裂になる。
共通テストの数学が長文化した、難化した、というNewsを何度も見ましたが(コチラ など参照)、上述の理解力が落ちていることと関係があるように思います。実際、無風凧は数学として「難化した」とは思っていません。国語の読解力も問われるようになった、と考えています。
半面、表現力というかプレゼンテーションの能力は随分と長けた学生がいます。下手な教員よりもうまい、という学生もいる。これは高校教育の成果でしょう。素直に素晴らしいことだと思う反面、学生間(学校間かも?)の格差が大きすぎる。
ただし。良いプレゼンテーションをしても、その中身がスカスカということも多い。メラビアンの法則によると、好感を持ってもらうための要素としては見た目と音声で90%超、内容は7%という結果が出ていますが、まさに「好感を持ってもらう」ことだけに特化した能力のような気もしています。
さてさて。最後に今日の主張。
上の二つの状況の共通する背景として、言葉の定義があいまいなままの学生が多い。いや、学生だけではなく、大人もあいまいなまま会話をしていることが多い。学生は、そもそも論としての定義を確認していないし、大人の場合は、お互いのシニフィエがずれている(これは自省を含めて、ではあります)。言葉の定義の確認は、一昨日描いた「文脈の確認」の前に行うべきことです(コチラ 参照)。
言葉の定義をきちんと確認することさせること。それを新学期は徹底していきたい思っています。
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