文学賞とミスキャンの線引き(ランキングについて考える)
ここ数年、LGBTq活動の活発化に伴い、ミスキャン(ミス・キャンパスコンテスト)の存在について、色々な(主には批判的な)意見が多くなっています。中止や廃止の議論だけでなく、水着審査を止める、ミスターコンテストを併設するようにする、など色々あるようです。
立命館大学の学生が、ミスキャンの存在に疑問を頂いて調査した記事があります(コチラ 参照)。要点をまとめると、、、なぜ行うかの理由が分からない、特に黎明期については語られない、、、、ということです。ということで、ここから先は、無風凧の「ランキング理論」で考察をしていきましょう。
ランキングとは何か?
一言でいえば、無から有を生む打出の小槌です。無価値の物(ヒト、サービス、なんでも良い)が、ある日突然価値を持ちます。一般的には、経済価値があるという意味の価値ですが、時々逆もあります。
簡単に言えば。芥川賞を取る前の小説家の原稿用紙当たりの執筆料は1000円。賞を取ったら5000円になる。という図式。本屋においては、賞を取る前は10冊も売れれば御の字だった小説が、賞をとったら1000冊売れる。そのような意味の打出の小槌です(価格や冊数は根拠ありません。分かり易くするための工夫です)。
加えると。「直木賞・芥川賞は、菊池寛が、雑誌の売れないニッパチ対策として、つくったものだ」という言説が、本人の減であったjか別にしてそのような考えを持っている(認めている)ことが証左です。
これが、ランキング、もしくはコンテストの本質です。主催者は、ランキングが持つ「波及力(Propagationの力)」を使って、金銭的な価値を生み出すために、ランキング(コンテスト)を行います。この仕組みは、音楽のショパンコンクールも美術の日展も変わりません。(注: 価値の中に、金銭的価値以外の個別の理由を持っている場合もあります。しかし、礼としては稀なので、以下でが金銭的価値と置き換えておきますが、適宜、色々な価値に読み替えてください。)
そして。参加者も、この仕組みを使って「自分を世の中に出す=価値があるものにする」ためにコンテストに応募・参加します。
その視点でもう一度ミスキャンを見直してみると。
少なくとも主催者と参加者には「価値」があり、その利害が一致しています。ミスキャンで一番になることで、就職に有利になる、とか彼氏に認めてもらえるとか、色々あるでしょう。アルバイトに応募する際「採用率が上がる」というのも立派な価値です。
主催者は、その意味では「価値を生み出すこと」に価値を見出しているというのが大前提?かもしれませんが、そのうちに、ミスキャンの開催スポンサーが集まってくるようになると、金銭的にも同気付けがなされるようになっていきます。
では。ミスキャンを開催しようと主催者が思い立ったが、参加者がいない場合はどうするでしょうか?そう。参加してくれる人をまずは「金銭的なインセンティブ」で釣るのが一番早い。では、ミスキャンの優勝者になりたい人がいてコンテストが無い場合は?菊池寛のようにコンテストを作ってしまえばよいのです。いずれにしても、いきなり大きなコンテストではないかもしれませんが、実行は可能です。
本日の最後。文学賞とミスキャンの線引きはどこか?言い換えれば、文学賞バッシングは起きないのに、ミスキャンバッシングが起きるのはなぜか? それは、純粋にLGBTqの流れです。価値を作り出すことが、男女差別もしくは「男性像・女性像の画一化」を助長するものだと感がている人が多くなってきたので、バッシングが起きています。それに加えて、人口に膾炙することが多いからでしょうか。ノーベル文学賞よりもミスキャンの方が興味を持つ人が多い、ということかもしれません。ただ、、、かつて焚書事件があったように文学もいつも安泰という訳ではありません。文学賞もいつ、「その存在が」否定されるかわからない。例えば、「表現の自由は憲法によって守られている事項であり、その自由を、コンテストの形で優劣をつけるのは憲法違反だ」という主張が主流になれば、文学賞自体がなくなる可能性があります。屁理屈に見えるかもしれませんが、世の中の常識、なんてものは、その程度の物です。
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