平等とは
今朝は、面白い記事を発見しました。(コチラ 参照)。サンデル教授の白熱教室のネタにしてもよいような実例です。
事象の概略:
沖縄の自衛隊基地における、食事量の案件です。
ある3佐が、「量が少ないから」ということで、配給量を超えたパンと納豆を数回、食べた。
この3佐は、バツとして抵触10日になった。
これを、「国防の任についているのだから、食事ぐらい腹いっぱい食べさせてもよいのでは?」という論調にもっていくのではなく、「平等とは何か」という視点から考えてみましょう。
要は、量に対する対価か、満足度(充足度)に対する対価か、という対立になります。
同じお金を払って、同じ満足度(満腹感)を得る、と書くと、同じ値段であることが平等なのでは、と考える方も多いのではないかと思います。バイキングがそのような発想だと思ってもらえば分かり安でしょうか。
自衛隊の食堂では、満足度ではなく、「配給量」をおなじにすることで、平等だと考えているわけです。これも正しい。なんせ、農家の方が作るための「コスト」の点まで考慮すれば、配給量が同じであることが平等だと定義する方が正鵠を射ているように感じます。
この2つの考え方は究極ですが、バリエーションを増やすことが出来ます。
Aさんは、納豆が食べられない(関西人に多い)。Bさんは納豆好き。 配膳された食事に同量の納豆があった場合、Aさんにとっては不要なものを押し付けられたことになり、とても平等な食事だとは思えないでしょう。
更には。この事例とは少し離れますが、一斉に食べることを考えると、配膳の順番は大きな問題です。最初に配膳されて冷たくなったみそ汁を飲むか、最後に配膳されて暖かいみそ汁を飲めるか、、、、更には。
食堂の入り口近くの騒がしい場所で食べるか、奥の方の静かな席で食べるか。
食べるのが遅い人にとっては、食事時間の長さが窮屈に思う人もいるでしょう、、、これも、「平等な食事」を提供していない事例になっています。
などなど。
自分が「当然」と思っていることを、本当かな?と批判的に考えていくことは、とても大切なことです。特に「平等」について考えてみるのは、色々な視座を他見することが出来ます。秋の夜長、哲学的に批判的に考える時間を持つのは如何でしょうか?
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