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藤井二冠の高校中退に考える(大学は変わらなくてはならないのか?)

昨日、「将棋の藤井聡太二冠高校退学」のニュースが日本中を吹き荒れました(コチラなど参照)。皆様はどのように感じられたでしょうか?

Yahooのコメントなどを読んでいたら、「卒業まであと一か月だからもったいない」という意見はあるものの、将棋に邁進しようとする姿勢に概ね好意的に受け取られているようです。

藤井二冠は、、、将棋の世界ではすでに第一人者、と言ってい過言ではない実績と評価を受けているので、退学という判断を世論は受け入れることができたのだと思います。では、今回の退学を高校側の視点で見てみましょう。

高校は、入学を許可したものとして、卒業させたいと思わなかったのか?

もし、卒業させるとして、単位不足にどのように対応するのか?留年だろうか?(近年では、女優の土屋太凰さんの留年が話題になりましたね)。藤井二冠から「将棋のタイトル保持者」という個人特性を外してしまえば、単なる単位不足、出席状況最悪の問題児、ということになります。卒業させるためには、高校側にそれ相応の負荷がかかることになります。

しかし、入学生に対して、留年性や退学性の多さは、学校としては「マイナス」の評価を受けてしまいます。だから、よほどのことが無い限り(刑事事件を起こすか、学費滞納が酷くコストに見合わない場合など)、無理でも卒業をさせようとします。加えて、一人分の学費源を失わないために。

これは、一般の大学と一般の学生にも言えることです。(ここからが本題)。

大学は高校以上に「自主性」が求められる、という前提で話を進めます。なにせ、義務教育ではないのですから。

「大学に通いたい、学びたい、卒業したい」というのは個人の意志です。この意志は、もちろん周囲の環境にもよるでしょうが、最終的には個人の判断にならざるを得ません(イジメなどの外部要因を除いた、ストレートな議論です)。

この意志尊重なくして、大学がかわることができるでしょうか?言い換えれば、大学も「評価」されます。就職率や論文数、そして留年や退学者数など、色々な軸で見られています。その結果、「学生の自由意思=退学意志」が、大学側の都合で阻害されているのが(少なくともFランに近い大学では)実情です。

退学が、藤井二冠だから祝福される、他の学生なら落ちこぼれの烙印が押される、ということがあってはならない、と言えるのではないでしょうか。これは、大学がかわらなくてはならない、大きなポイントです。、、勿論、大学を評価する文科省や、世論も含めて、ですが。

 

 

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