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死刑執行は死刑囚の考えを認めることになるのではないか?

相模原・障害者施設「やまゆり園」連続殺傷事件犯人の植松聖被告(死刑囚)が控訴を取り下げ、死刑が確定しました。

この死刑確定、なんとも府に落ちないものがあります。

この死刑判決自体が、植松死刑囚の主張と同じ論理の下で執行されるのではないか、と思えるからです。

言い換えれば、、、被害者家族の「思い=反省や翻意をしてほしい」という気持ちは、植松死刑囚には届いていません。死刑にすることにより、この「反省・翻意」の機会は永遠に失われることになります。

植松死刑囚の主張は、「人の言うことが伝わらない相手は、殺してもよい」というものでした。論理構造としては、とてもよく似ています。もっとも、植松死刑囚は「人を殺した罪」により「死刑という罰」を受けるという意味では、植松死刑囚が起こした事件とは異なるわけですが、しかし、なんとなく、釈然としないものがあります。

植松死刑囚は、「死ぬのは怖い」とも受け取れるような発言をしているようにありますが、結局としては「人とコミュニケーションとれない人は死んでしまえ」という主張の下、自分は「被害者家族とのコミュニケーションは取れない人間だ」という意識で死刑台にのぼるのではないか、と思うのです。だとすれば、植松死刑囚は、自分の死をもって自分の主張を最後まで通してしまう、自己主張を完遂してしまいます!

その意味でも、無風凧は、「終身刑」として、死ぬまで翻意を促すことこそ植松被告への「最大の罰」であろうと考えたこともあったのですが、それも甘すぎる様にも思います。結果として、現在の法律の下では、死刑で The END. 

ここまでかいて、やはりなんとなく釈然としません、、、そして、遺族の皆様の悔しい気持ちが幾ばくかわかるような気がします。こんな形の「処罰」は、過去に例がないのではないでしょうか?

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