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Sibeliusを言い訳に

今日は、シベリウスの誕生日。生きていたら、満154歳です。

最近は、邦楽付いている無風凧ですが、今日だけはシベリウスファンに戻ってAndante Festivoを聴きました、、、そして、ふと思ったのですが。

シベリウス自身は、国民楽派に分類される音楽。いわゆる西洋クラシック音楽の流れを汲みながらも自国の音楽を追求した音楽かということになります。フィンランドの叙事詩カレワラを題材にした音楽は、動機・素材としてフィンランドのものを用いてます。きっと、和声やメロディー、リズムにもフィンランドに特徴的な音楽が内包されていると思うのですが、日本人である無風凧には残念ながら「この音楽のどこがフィンランドなのか」と問われてもなかなか明瞭に答えることができません。

それに対して、雅楽や民謡などは、聴いた瞬間に「日本の音楽だ」ということがわかります。調子や楽器の音でなく、わかります。その意味では無風凧は「日本人なんだなあ、、、」と、最近強く感じています。

さてさて改めてSibeliusの話。シベリウスは、人生の後ろ30年間、作品をほとんど残していません。自省癖でなかなか作品を発表できなかったのだ、と言われています。実際に、交響曲8番は一度完成したにも関わらず、1945年に自身の手によって焼却された、とシベリウスの妻アイノは語っています、、、

大シベリウスほどではないのですが、無風凧も最近、論文を書いても教科書を書いても、見返すたびに修正したくなり、なかなか脱稿しません。無意識のうちに、シベリウスの自省癖が憑ったのでしょうか、、、

そんなことを考えながら、予定通りに進まない仕事の言い訳としています。

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