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平等な評価はあり得ないのだから。

大学入試の英語民間化で揉めています。身の丈発言の荻生田大臣が謝罪したり、制度自身が見直されるかも、という報道があったり。

いわく、教育機会の平等化、だそうですが、、、無風凧は思うのです。真に平等な評価はあり得ないのだから、細かな事を気にするより、何のための教育か、の原点に立ち返って考えてみてはどうかと。

皆さん言っている、機会を平等にする、と言うときの「平等」って何ですか?教室に座ることですか?それとも、同じ内容を学ぶことですか?それとも、同じ程度に知的欲求を満たすことですか?

以下は炎上覚悟。

少し自慢に聞こえるかも知れませんが、無風凧は中学の時、数学の授業は愉しく無かった、というのも、進行が遅いというか簡単すぎるというか、、、時間が無駄だと思うことも多かった。これって、、、無風凧にとっては、不平等だと思ってました。数学ってもっと楽しい教科だと知ってましたし、入試問題を時間区切って解くのもすきだったから。数学は飛び級させてくれれば、と何度思ったことか。

親の収入で、家庭教師に着くことが出来る人とできない人がいますが、これは、平等?不平等?

学校に行くまでの電車代はどうなんでしょう? 

等々考えれば、平等はあり得ない。

今回の英語の民間試験利用は、自分に有利になるように、自分の得手を生かすように試験を選ぶ平等は担保されているのだから、民間入試導入による不平等は、他の本質的な不平等に比べれば小さい、と無風凧は思うのです。


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