絶対真の命題は作ることができるのか?
「津久井やまゆり園」の事件から早くも3年が過ぎました。来年の1月から、やっと公判が始まるそうです。
以下は「やまゆり園事件のインタビュー記事」を用いた論理学の話です。
津久井やまゆり園事件の植松被告へのインタビューを、JIJI通信が記事にしました(コチラ 参照)。
記事によると、植松被告は「意思疎通の取れない方を安楽死させるのは間違いでない」という思想を持っています。これに対して、神奈川県福祉子どもみらい局の川名勝義参事監は「被告のような差別的な思想、考えは決して認められない」と主張しています。
この二つの思想・主張を「アウフヘーベン」することは可能でしょうか?
この問い掛けの真意は、「絶対真の命題をつくることができるのか」です。言い換えれば、「地球上のすべての人が『イエス』と言える命題をっ作ることができるのか」です。
決して植松被告の意見を正しいと言っているわけではありませんが、日本でもかつては「子捨て(子供の間引き)」が行われていましたし、伝承としては「姥捨て山」が行われていたことになっています。つまり、社会弱者は、見捨てられていた時代があるのです。この時代に、もし、重度障害者で、意思疎通が取れない人が真っ先に見捨てられることは想像に難くありません。
このように考えると、時代によっては「意思疎通の取れない方を安楽死させる」ことが「差別思想では無い」時代もあるように結論できます
しかし、今回の参院選で「れいわ新撰組」から二人の重度障害者が当選したように、「現在は」多数派のように思います。
さらに。次のように考えることができます。
絶対真の命題Aがあると仮定します。Aの否定を真にすることはできません。
ここで、Aとして日本国憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」を取り上げるとすると、Aの否定は真にはなりえません。Aの否定を「差別的な思想、考えは決して認められない」とすれば、川名参事監の言葉は憲法違反、ということになり、あれれ、、、?となります。
似たような話は、「コーランか剣か」という究極の選択もありました。
「絶対真の命題の存在」について、サンデル先生の白熱教室、で取り扱ってほしい、と思っています。
以上は、「論理学」の話です。植松被告の主張を、無風凧は「真」だと思っていませんので、その点を突っ込まないでくださいね。
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