D.3780 ガバナンスの病巣(順天堂大学新生児取り違え事件のケーススタディ)
事の経緯の一端は、順天堂大学のサイト(コチラ)、 FNNの報道記事はコチラ。
簡単に言えば、51年前に新生児取り違えをした順天堂大学と、その事実認定と補償を求めた被害者のやり取りです。この手の記事を読むと、無風凧は義憤に駆られます。今回は、この事件を題材として、2点、指摘します(順天堂大学の事件でのケーススタディですが、慶応大学でも東急電鉄でもヨドバシカメラでも、、、同様の指摘ができることを、経験しています。)
1. 間違えた民主主義=多数決主義
この事件の解決に向けての課題の一つは、被害者の実の両親を被害者に伝えるか否か。被害者はそれを希望しており、順天堂大学側は「専門家の意見を元に」開示しない、としています。大学側の相談する「専門家」は、「大学側の意見を発する」事は想像に難くない。司法の場など、完全に第三者的、もしくは陪審員制度で判断すべきことを、「専門家の意見」という「多数決」を順天堂側は主張します。この場合、専門家、、、を呼べば呼ぶほど、民主的な意見は出てこなくなる。当事者の意見が蔑ろにされ、識者・専門家の意見を尊重する風潮・議論は、間違えた民主主義・多数決主義です。
2. ラスボス主義という腐敗構造
FNNの報道によると、順天堂大学側と被害者側は一度、ほぼ合意に歩み寄っていたところ、順天堂大学側が一方的に担当者を変え、交渉をゼロベースに戻したとのこと。その際の順天堂側の主張が、「本件は大学(学長)決裁案件ではなく理事長(法人)」決裁案件だから」とのことです。TVゲーム風に言えば、雑魚学長を倒しても、ラスボス理事長を倒さないと交渉は終わらない、ということです。一般に、被害者側は個人ですから、費用的にも時間的にも体力的にも「戦えなく」なります、、、D.コースのコストセオリーでいう、「交渉コストを沢山掛けられる方が、交渉に勝つ」、という単純な結果です。この手法で交渉に勝つというのは「倫理的にありえない」。もっと言えば、ガバナンス体制が腐敗していると言えます。良識のある経営者なら、担当者を変えることは無いでしょう。(この問題の場合は、被害者実親の「寿命」が絡みますから、一刻も早い解決を目指すのが経営責任だと考えます)。
無風凧は、何度も主張していますが、ミスのない世の中を作る事は出来ません。ナチュラルリスクを容認する社会を目指さなくてはなりません。しかし、そのためには、「間違いを素直に認め」「補償する」というルールが必要です。場合によっては、第三者委員の意見で「お金にせざるをえない」ということも有りかもしれませんが、補償は、必ずしも金銭だけではありません。
これが出来ないガバナンス、、、ここでは順天堂大学病院ですが、無風凧の経験上、大多数の企業で起きています、、、がくるっている、と言えます。
| 固定リンク
コメント