ランキング疲れ(ランキングについて考える93)
今朝のNiftyNewsの中で、ひときわ無風凧の目を引いたのが「ランキング疲れ」という言葉(コチラ 参照)。
この記事から、3点、引用します。
「12月に入って次々に今年を振り返るランキングが発表され、アワードが開催されていますが、例年よりメディアや一般の人々が盛り上がっていません。」
「昨年あたりからメディア業界で指摘されているのは、嗜好の多様化・細分化。人々の関心事が多様化・細分化されている分、1つあたりの熱や価値が落ちているのです。」
「だからこそランキングやアワードの数を減らし、メディアは安易な報道を抑制し、人々の“疲れ”を取るべきではないでしょうか。「上位ランカーや受賞者が心から喜び、人々が素直に祝福できる」、そんなかつての姿に戻ることを願っています。」
記号文化論的にいえば、「ランキング」という言葉・記号が乱造され、「言葉の消費」のピークを越えた、ということでしょうか。この視点に立って、上記記事の主張は、全て首肯できます。
そのうえで、大きな一点を加えます。それは、「一般消費者がランキング以外での価値を見出せなくなってきた」ということです。もしくは「ランキングが普遍化した」。逆説的に聞こえるかもしれませんが、「すべての価値・判断基準をランキングに依存している」という社会現象が起きています。
例えば、本屋。「当店の売り上げトップ3」のような文言はよく見かけますよね?Googleのアプリで「暇なんだけど」と問いかければ、その人の行動履歴と「ランキング」の結果による「おススメ」がランク表示されます。、、つまり、すべての行動の判断基準が、ランキングに寄っているわけです。つまり「ランキングされている結果であること」が当り前。決して、ランキングから距離を置いているわけではなく、ランキングがComodity化した、と言えるでしょう。
さて。ここで小さな問題提起。これは、「人」が「人たりうる」ための、重大な問題です。記号消費のピークを越え、Comodity化したランキング。ランキング人仮説では、「人はランキング上位を目指す」という仮説ですが、「人がランキングを重要視しなくなる」=「向上心が無くなる」という帰結を予言しているのではないか、、、。このように考えると、ランキングバブルが始めることにより、「人」の進歩が止まるのではないか、と恐ろしさを感じてしまいます。
# 少し筆の勢いが止まらず、文脈が支離滅裂ですね、、、すみません。
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