差別と区別3(ランキングについて考える87)
少し時間が空きましたが、差別と区別の3回目です。(その1、その2 参照)。
1,2回目をまとめると、「区別する」と「差別する」は、同じことである、ということ。言い換えれば、人は差別することなしに、知識を蓄積することが出来ない、ということです。
「ランキング人仮説」は、「人はランキングする生き物である」という仮説です。だから、上記は、「知識をためること」は即ちランキングすることである、という一つの証左を得たと考えることができます。(文章が少し拙いことはお許しください)。
しかし。ここでもう一度思い出してください。元来「区別だけ」する欲求で済むものが、「知識」となる瞬間に「差別が生じる」。では、「区別だけに戻す」欲求は生まれないのか?もっと言えば、「Overspec」な差別という行為に対して、その「Overspec」な部分を「放出したい」欲求はないのか?
これも「仮説」ですが、この放出欲求が「いわゆる差別問題」の根源だと考えます。
AとB。A,Bは何であってもかまいません。リンゴとミカンでも良いし、赤と青でも良い。勿論、2つの国でも良いでしょう。この二つを「区別」さえできればよいのに、知識とした時点で差別が生じている。人に伝えるときにはいやでも「順番(Ranking)」が生じる。この順番があることが、差別の根源です。この差別と区別の違い、、、ここでは「Overspec」と呼んでいますが、、、を放出する欲求が「差別問題」の根源であると、考えています。
AとBを区別したい。区別するだけで良い。平等に扱うことで充分である。でも、知識となっている時点でランキング=差別化してしまっている。この「Overspec」分を是正した欲求が、差別問題の根源。AとBが国の名前であったり、宗教の名前で会ったり、人種であったり、、、これがいわゆる差別問題だと言えます。
舌足らずな表現を深謝。もう少し「コナレタ」文章にできた時点で、もう一度書いてみたいと思います。しかし、差別と区別のズレに着目したこの議論(哲学)は、前例はないと思っています。
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