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限定合理性と政治家

経済を勉強するときに、必ず勉強する言葉に「限定合理性」があります。限定合理性とは、「合理的であろうと意図するけれども、認識能力の限界によって、限られた合理性しか経済主体が持ち得ないことを表す(Wikipedia)」という意味です。

この「限定合理性」は、何も経済の世界だけではありません。人は誰しも、能力の限界があります。その限界の中で情報を収拾し、思考・判断して実行に移します。

この限られた情報収集を少しでも効率的に行う為に、現代ではネットは大流行、ということが出来ます。kakaku.comを始めとして、「最安値」を提示するサービスは、限定合理性の求める経済人モデルに合致します。

また、どのお店が美味しいか、という情報は、Netとは逆に「信頼できる友人」の情報やおススメを無条件で信じてしまうことも経験したことがあるでしょう。これも限定合理性の中で、一つの最適解を出しているわけです。

さて。ここまでは「経済」の話。続いて、政治の世界で考えてみましょう。政治家の方が情報収集するときにも、その能力限界は存在します。その意味では、必ず限定合理性の中で、政治判断をしていることになります。

政治情報が定量化出来れば、政策.com みたいのができて、最良政策を選ぶ、なんてことが出来るでしょうけど、それは出来ません。だから、自分で「目や耳で集めた情報」を元に政策を立てていくわけですが。

ここで、「友人リコメンド」というのは、生きています。政治判断に、「伴侶」の考えの影響が皆無ということは無いでしょうし、友人とゴルフに行って、その打ち上げのビールパーティーで話した内容がきっかけになる、なんてことは日常茶飯事と言えます。

このように考えれば。つまり、政治的なDirectionも、限定合理性の中でなされていることを受け入れれば、、、、首相の友人の意見が政治判断に影響することは、人間の本質として認めざるを得ないことになります。この「友人の意見」のなかで、「公正無私」な意見と「私利にまみれたもの」の区別をする能力こそが、政治家に必要な能力だと言えます。

逆にいえば、「公正な意見」を述べる友人と、それを「判別する能力」を持った人こそが、政治家にふさわしい、ということが出来るでしょう。今の政治家の中で、何人指が折れますか?

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