所属と肩書き(ルールについて考える)
もう20年近く昔の話。
無風凧が、A社の従業員だったころの話です。無風凧は本を一冊出しました。その本は、A社の業務とは全く関係無い内容でした。出版に際し、自分の略歴として、「現在A社研究員」と書きました、、、、これが、その後大変なことになりました。
というのは、「許諾なしにA社の名前(肩書)で出版した」という指摘を受け、始末書。その際、A社担当者の説明は、「A社の肩書を使用する際は、A社の許諾が必要です」というもの。でも、無風凧は納得できませんでした。これはおかしい。自己紹介する際に、A社従業員であることをいうのに、一々許諾が必要ですか?マンションを借りるときでもクレジットカード作る時でも、現在の「勤め先」は書きます。これに対して、いちいちA社の許諾が必要ですか?否、不要です。それに、本を出版する際は、単なる「略歴」ですから、A社の名前を書いたことにより出版が取り消されることも逆に持ち上げられることもありませんが、マンション借りる際は、審査でA社の名前があれば、まず間違いなくOKです。こちらの方が、A社にとっては、「肩書濫用」として取り締まるべきでは?と考えてしまします。
というのは、「許諾なしにA社の名前(肩書)で出版した」という指摘を受け、始末書。その際、A社担当者の説明は、「A社の肩書を使用する際は、A社の許諾が必要です」というもの。でも、無風凧は納得できませんでした。これはおかしい。自己紹介する際に、A社従業員であることをいうのに、一々許諾が必要ですか?マンションを借りるときでもクレジットカード作る時でも、現在の「勤め先」は書きます。これに対して、いちいちA社の許諾が必要ですか?否、不要です。それに、本を出版する際は、単なる「略歴」ですから、A社の名前を書いたことにより出版が取り消されることも逆に持ち上げられることもありませんが、マンション借りる際は、審査でA社の名前があれば、まず間違いなくOKです。こちらの方が、A社にとっては、「肩書濫用」として取り締まるべきでは?と考えてしまします。
今となってはもう昔話ですから、ルール(Code)が所と場所によって異なり、説明不可能になることの一例として覚えているにすぎないのですけど。
上記を、首相夫人 という「肩書」について考えてみましょう。昭恵夫人にとっては、「自己紹介」の際に、「首相夫人」とのべることは何も不都合が無い。この自己紹介は、どんな場合であっても、です。これを禁止することはできない。では、他人が昭恵夫人を紹介する際に、やはり、「首相夫人」というのが、もっとも分かりやすい紹介でしょう。これを禁止することも、不可能。
では、首相夫人と紹介された方は、、、ちょっとだけ、「首相夫人」という「ポジション」を気にすることになります。例えば、「失礼が無いようにしよう」という気の配り方が少しだけ上がる。係長や課長より、本部長という方が気がついた方が上位に思えるのと同様に、「首相夫人」という二つ名が付いた瞬間に、その他の方より、「上位」に感じる方がいらっしゃるのは日本人のメンタリティーから言っても当然。そして、、、ここに、商業価値も出てくる。
使用している側(昭恵夫人)は只の自己紹介。でも自分から遠くに行けば行くほど「価値」が付いてしまう、、、この価値は、日本における「Common Sense」みたいなものです。
使用している側(昭恵夫人)は只の自己紹介。でも自分から遠くに行けば行くほど「価値」が付いてしまう、、、この価値は、日本における「Common Sense」みたいなものです。
この例は、同じ言葉でも、自分からの「距離」によってとらえられ方=ルールがが変わること、そして、マスゴミ(政敵も)は「その、もっとも遠く」の位置から見ているのを正論としてることが分かると思います。
続きはまた。
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