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奉公滅私と日本人

埼玉県の公立高校教諭が、自分の子供の入学式に参加する為に勤務先の高校の入学式を欠勤した、というニュースがホットです(コチラ 参照。)

賛否両論。まるで、サンデル先生の「これからの正義を議論しよう」の様相を呈していて、それぞれに言い分は「もっともだ」と思います。

この問題の本質は、公(教諭)と私(親)の切り分け線が、人によって異なる、ということ。そして、「人に要求する場合に職業その他で切り分け線が異なること」です。

学校の先生は、聖職者、と呼ばれることも多く、また、公立高校の先生は公務員ですから公職、ということができます。この場合、日本人のメンタリティとしては、奉公滅私を要求することは想像に難くありません。アメリカ人なら、、、きっと、「勤務先高校に出勤した親」に対する非難が集まるでしょうね。日本人でも、私企業の入社式に欠席する部長さん、程度なら、誰も文句つけないでしょう。

ところで。
このような曖昧な区別を行わなくてはならない場合に、本来、規則や法律、が威力を発揮します。その視点に立てば、現時点では教諭は何もルールを侵していない。それでも、非難されるのが「国民性(メンタリティ)」です。規則や法律なら、来年以降に対する「直感的な」対応策はとても簡単に提示することが出来ます。勤務校の主要行事と私用重要行事が重なる教員をその年の担任に着けないようにすればよい。

でも、規則作りの段階で、ルールは不要で奉公滅私が当たり前だ、という方は少なからず存在します。そして、「忘れられるまで議論が続く」のではないでしょうか。それが、日本人、だとおもうのです。

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