好きな音楽2013年9月
今月も、楽譜の話を端緒に。
西洋音楽において、一番最初の楽譜がどういう意図で書かれたか、は無風凧は詳しくは知らないのだけど。でも、バロック時代以降は、基本的には作曲家が自分の音楽的創意工夫を書き留めて、それを演奏してもらう為に記述されていったものが楽譜である。もちろん、即興演奏をなどを「記録として書き留めた」ものもあるのだけど、どちらにしろ、「芸術的創意工夫としての音(Music)」を記述していったものであると考えられる。
音の高低や長さを記述するという視点で考えれば、何も五線譜である必要はなくて、文字で表す文字譜や、図形楽譜と呼ばれるものもある。日本の伝統楽器(三味線や尺八、筝など)にも、独自の「楽譜」が存在する。
そのように「音の高低・長さ」を記述しているという意味では、お経も、一種の楽譜である(コチラ 参照、、、絶対見てね)。文字(経文)の横に、点や棒で「歌い方(唱え方)」を示しているからだ。無風凧は、ずっと「お経も楽譜だ」と認識していた。
しかし。
今年の5月に高野山に行って(コチラ 参照)、声明のDVDやテキストなど色々入手して勉強したのだけど、どうしても、楽譜と違う部分があることに気が付いた。何が違うのか、3か月以上、考えた。
考えた結果。
ようやく、少しわかった。西洋の楽譜は、楽譜に書かれている「音(作曲者の創意工夫)」に対して、演奏する人に「解釈」が許されている。演奏者による解釈が異なることによって、同じ曲でも色々な表情を見せるものだ。それに対して、声明は「弘法大師」がどのように唱えたかを「忘れないように」記憶するために書かれている。1200年の昔、もちろん「録音」することはできなかったわけで、基本は「口伝による記憶」であり、その「補助」の為の楽譜(経)なのである。書かれているものの解釈よりも「如何に弘法大師に近づくか」が重要なことなのである。もっと言えば、「師匠の唱えたもの」が正しくかつお手本であり、決して「楽譜(お経通り)」に唱えることが正しいわけではない。
この違いは、もしかすると日本と西洋の基礎教育の考え方の違いにも通じるかもしれない。日本においては「学ぶ」は「真似ぶ」事から始める。西洋におけるEducation は 「外に出る」が語源。だから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」となる。この違いが、基礎教育の考え方の違い、ひいては国民性の違いに繋がっているように思える。
おっと、楽譜の話から教育の話に飛び火してしまった。今日はここまで。
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