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秋入学について考える

最近、大学の秋入学論議が話題を読んでいる(たとえば コチラ 参照)。

秋入学の狙いは単純明快で、卒業を欧米の大学と同じ時期にすることで、日本の大学のグローバル化を目指すとともに、学生の国際競争力を上げましょう、ということ。東大の浜田総長などは、声高に推進している。

グローバル化や国際競争力をつけることの是非については別途議論をするとして、気になった点を2つ。

1) 明治以来、日本の入学、卒業は4月であった。その歴史・文化を捨てるほどの意味があるのか? 例えば、入学式から桜を想起する日本人は多いと思うが、秋入学はその文化が無くなることを意味している。

日本を、日本人を形づけているものは何なのか。秋入学の問題は、日本人がもっと本気に考えなくてはならない問題である。

2) 秋入学にすることで、本当にグローバル化することになるのか? あたかも、地方都市に「文化会館」を作れば「文化都市になった」と言っている箱もの行政と同じ匂いがする。卒業・就職の時期だけ制度として国際標準にしても、実が伴わなくては無意味である。

組織論を研究していると、制度と文化の関係は「鶏と卵」だと言える。その意味で制度を先に作ること自体は悪い事では無い。この程度(秋入学程度)の制度なら、無風凧もいくつか提案できる。しかし、制度の形骸化が起こりうることも、組織論の教えるところなのだ。秋入学制度について熟考したわけではないが、形骸化の匂いがぷんぷんする。

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コメント

nogaさま
コメントありがとうございます。

日本語には 時制(tense)がない、というのは
 「過去の日本語にあったのに、今の日本語に無くなった」
という意味ですか? たしかに、古文では ケリ があったのに、今は 完了の シタ ですから、、、 面白いですね。
それとも 未来形は無い、ということでしょうか?
文脈的には、未来形が無い、のほうがピンときますね。

無風凧 拝

投稿: mufukai | 2012年3月 6日 (火) 15時43分

日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

以前マッカーサ元帥は、日本人を12歳と評したことがある。
日本人は彼の評に立腹こそすれ、その意味を深く掘り下げることはしてこなかった。
我々は、浅薄である。秋入学の動きは、浅はかである。だから、留学生は、我が国を避けて英米に行く。
知的な人になるためには、英米の高等教育が必要である。これは国際的な判断である。
英米の高等教育は、奥の深い大人になるための更なる英語の勉強である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2012年3月 6日 (火) 14時41分

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