論理の場合、判断の場合(コネタマ参加中!)
ブログネタ: あなたは白黒はっきりさせたいほう?
無風凧は、、、判断に関しては「その場の雰囲気」で良いと思っています。D.コースのコスト理論を援用するわけではありませんが、黒白付けるコストに対して、結果が小さいから。
しかし、「論理」「類推・推理」の積み重ねに関する妥協は、あまりしたくありません。コスト理論的に「赤字」だと思っても(つまり、労多くして益すくなし、な場合でも)、はっきりさせることが多いようです。
そして、自分の「論理」に破綻が見つかった場合は、、、敗北(?)を認めることに躊躇はありません。
例えば(良くない例かもしれませんが)。
放射の安全基準を「年間○○シーベルト未満を安全とする」という○○の数字が、少しくらい多くても少なくてもないと思っています。
しかし、
「△△シーベルトから○○シーベルトに増えても、癌の発生率が0.5%しか増えないので、○○シーベルトでも安全だ」
という表現になれば、話は変わります。それは、発がん率が0.5%増えているという前提を無視しているからです。
もし、「発がん率が0.5%増えても安全」だとすれば、同様に、もう0.5%増えても安全、となります(上記の文章中には、「合計1%増えた場合」の記述は無いから。)。つまり、○○シーベルトではなく○○+◇シーベルトでも安全となり、、、、結果、放射線はどんな値でも安全である、という結論にならざるを得ない。
このような意味で「論理の破たん」が起きることは、気持ちが悪く、文章表現などの場合に「白黒つける」、つまり「曖昧さを無くす表現にしたい」というきもちになります。
このブログの内容には、ちょっとふさわしく無いかも。
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