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裁判は多数決なのか?(コネタマ参加中)

コネタマ参加中: 裁判員、やりたい?やりたくない?

日本国民である以上、日本の法律には従わなくてはならないので、「やらざるを得ない」。

その覚悟の上で、裁判員制度に対する疑問・要望を、少し真面目に論じてみたい。

(1) 裁判は多数決なのか?
 有罪・無罪 の判断基準は、証拠に基づく「論理的な説明」が可能であるか否か、であると思っているのだが、その認識は、みなさまの認識と合っているだろうか?良識の範囲内では、「より論理的に説明可能」なものが、多数を得るであろうと考えられるであろう。これに基づけば、多数決に基づく裁判(判決)は支持されてしかるべきである。
 ところが、人間の判断とは、そうは簡単には行かない。論理的に飛躍や矛盾がある仮説であっても、感情的にその仮説を真実として採用する場合がある。その一例をあげよう。皆さまにも思い当たる節があるかと思うのだが、多数決の際、多数派に自分の意見を合わせた記憶はないだろうか?もちろん、これは一例にすぎず、他にも多数決というシステムが内包する課題は指摘することができる(このblogではここで止める)。
 このように、多数決になること自身に、まずは大きな疑問がある。

(2) 証拠について
 前述のように、「論理的に説明可能な説」を導出することを考える。その場合、最も大切なことの一つは、正しい証拠の積み上げ、である。しかし、この「正しい証拠」は少なくとも2つの課題を持つ。一つは、その証拠自身の正しさ。そして、もう一つは証拠として採用されるか否か。たとえば、足利事件の場合、当時のDNA鑑定結果という証拠自身が正しくないものであったが、「絶対に正しい」と信じられていたために、冤罪事件となってしまった。
 このように、証拠の正しさを、どうやって担保するかは、大きな課題と言えよう。

(3) 判断の基準になる資料の「表現」に関する問題
 全てが正しい証拠であったとしても、その説明をする資料の「表現」方法が、裁判/判決を大きく左右する。裁判の例ではないが、次の2つの文章を読んでを考えてほしい。
  無風凧の日当は1万円である。
  無風凧は、時給1000円で一日10時間労働である。
どちらが、「薄給」だとおもいますか?
実は同じ金額の給料でも、この2つでは受け取る心証が異なることを体験して貰えたと思う。 文章だけでも、これだけ違って感じるのである。事件の説明を行う場合、図を使った時の配置、大きさ、色や文字の色、などによって、印象がことなり、裁判員の判断が異なる。本来は、論理の積み上げで判決されるべきものが、「表現」方法によって左右される可能性がある。表現によって判決が変わる、、、これでは、「公正な裁判」とは言えないのではないだろうか?

課題や要望は、この他にも多数あるが、今回はその中から3つ、提示した。

自分がもし裁判員になったとしたら、少なくとも上記のようなことに留意しながら、任務を果たすであろうと考える。

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