2種類の大学

以前、「実務家教員は体系的な知を語ることができない方も見受けられる」と辛口のことから来ました(こちら参照)。

でも、一昨日の記事をご覧になってお分かりのように、無風凧自身も考え方が変わってきました。

大学が、就職予備校化しているのであれば、研究教員よりもロートルであるといえども実務家教員の需要は増えます。研究教員は、統計的な意味で、過去の事象を知としてまとめていきますが、それは全てあくまで過去の話です。

いま、過去の話と書きましたが、自然科学と社会科学では過去の扱い方が異なります。自然科学は、実験による再現性を持っていますから、過去からの知の蓄積は大切です。もちろん、どこかで大きな建設点が来ることもあるかもしれませんが、少なくとも、実験的事実を再現できるという意味では、過去も現在も同じです。つまり体系的な知を学ぶことは、基礎として重要なことです。

しかし、社会科学はそうではありません。時代によって環境が変わります。そのため、過去の蓄積値は現在の正解を導き出すことがありません。言い換えれば、再現はできないのです。その意味で、研究教員が話をしていること=体系的な知 は、知っていることを無駄だとは言いませんが、再現することは不可能なことです。ですから、研究教員が話をしている体系的な知も、実務家教員が話をしている自分の経験も、実は同じ「ケース」の説明です。見方が体験なのか客観なのかの違いだけです。

ここで一つの問いが生まれます。

就職予備校、と捉えている学生たちにとって、研究教員と実務課教員、どちらが彼らのニーズに合っているでしょうか。もちろん、1クラスの学生の中には研究志向の人もいれば就職希望の人もいます。ですから、ここでアンケートをとって統計処理をしても何の意味もないことは、お分かりいただけると思います。

結果として。

研究志向の大学と、就職志向の大学、この2つは分けられてしかるべきなのではないかと無風凧は今は考えています。

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研究ノート

たまには、少し楽しい話。研究の構想です。

これまでも述べてきたように、無風凧は「コラッツの問題(角谷予想)」に挑戦しています。現時点で、最も解決に近い結果を出しているのは、テレンス・タオでしょう。でも、タオ自身も言っているように、彼の出している結果は、コラッツの解決からはまだ随分程遠いところにあります。それは、無風凧でも理解できます。(エルディッシュやラガリアスは、現代数学では無理だ、と言っています。)

なんせ、コラッツの問題は、自然数を相手にしています。確率測度論で100%の正解を導き出すことは、不可能です。

最近、無風凧は自然数(整数論)の考え方を少し変える必要があるのではないかなと考えています。

人類は、数の種類を増やす方向で考えてきました。自然数から負の数、有利数、無理数、、、そして、少し毛色は違いますがガウス整数という考え方など(類体論、整数環の考え方)、常に使い方を広く広くしてきました。でも、自然数は自然数のまま。つまり基数のまま。例えば、序数の考え方を入れることはできないのか。これが発送の原点です。

我々の今までの数学の歴史から言うと、非常に難しい思考形態だと思います。なにせ今は、序数は、順序集合に写像することで考えていますからね。この順序集合に所蔵することをせずに、何らかの代数系を作ることができないか、という空想を働かせているところです。

現在20数桁の数字まで(2の68乗まで)全て1に戻ることがわかっているコラッツの予想。果たして、全ての数にまで拡張することができるのか?ワクワクする問題です。

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大学を就職準備段階と考える(大学は変わらなければならないのか)

大学教育の現場にいると、学生の動きが昔と違うことがよくわかります。昔、、、と言っても2010年ぐらいのことですが、、、は、大学を卒業して就職する、という認識を学生は持っていたと感じます。でも今は、就職のための一つのバッジとして大学に通っている、という位置づけの子が増えたようです。だから、大学に通うよりもインターンやアルバイトの方が忙しいという学生も多い。

文部科学省も、実務家教員を大学に入れてきました。言うなれば、研究業績ではなく、実務歴のある人を大学の教員として雇うようになったということです。この時点で、文部科学省は、大学を研究の場だけではなく、就職の一つのパスだと考えてることが分かります。

このように考えると、教育基本法にある大学の位置づけは、変化していると言わざるを得ません。いわゆるアカデミズムのみではなく、就職予備校という機能を持たせざるを得ない。

しかし、ほとんどの大学(一条校)は、研究大学であることを望んでいます。就職実績を競うようになっている大学であっても、教員採用の際は、研究実績で判断している。ここに大きな矛盾がある、と皆さんも感じませんか?

無風凧は思うのです。今の世の中、大学に求められている機能の半分は就職予備校。であるとするならば、旧態依然とした研究教員だけでは世の中のニーズに答えることができない。世の中のニーズに応えるためにどうすれば良いか、それは一旦、研究のための教育を忘れ、実務のための教育つまり手に職をつける教育が必要なのではないか。

今の大学にも、研究者として優秀な学生はいます。でもその数は昔と変わっていないでしょう。大学生の数が増えている現実を考えれば、研究に適さない学生が増えていると考えることが妥当でしょう。だとすれば、大学は、研究大学と就職大学の2つに分けなくてはならない。カリキュラムも、研究実績者が作成するのではなく実務家教員が作成する、、、決して研究大学の真似をすることなく、、が必要なのではないか。。。。などなど、取り止めのないことを考えています。

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思い出の詰将棋: 玉+飛車角4枚横一列

土曜日は詰将棋の日!

20230715 11月も末になり、そろそろ年賀詰の用意をしなきゃな、と思う今日この頃。なかなか創作のアイデアがわかないというか、意欲が足りないというか、、、という日々を過ごしています。

今日は2023年にこのブログで公開した作品の作意紹介(コチラ 参照)。玉と飛車角4枚が一列に並んでるという作品です。当初は、9枚(つまり、詰め方玉を打つ含めた全てのコマ)を横一列に並べようとしていたのですが、なかなかうまくいかず断念。飛車角4枚にしたという経緯です。また、持ち駒もなしにしたかったのですが、歩1枚は仕方がない、とお許しください。

作意
73角成A、82金B、92歩、同玉、83角成、同歩、81飛成、同玉、91飛、まで9手詰

A:初手は7三角成か生しかないのですが、一瞬迷うのではないでしょうか。というのも、どうも「歩詰作品くさい」と言うオーラを発しているから。(迷いそうなのは無風凧だけ?)
B:桂を除くどの駒でも、同様に詰めることができますが、最終手余詰めを避ける意味で82金としています。

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懲役8年

制限速度を134キロオーバーして事故を起こして人を殺した事件の判決がおりました。危険運転致死罪が適用され、懲役が8年になりました(コチラ など参照)。

この懲役8年、という数字を見て、無風凧はとっても日本人的な判決だなあと感じました。

というのも。この裁判は、134km オーバーが危険運転かそうでないかで争われていました。過失運転致死なら、最高でも懲役7年。そして判決は8年。

この裁判は、裁判員制度を使った裁判でもありました。そしてその判決が「8年」と聞いて、裁判官は過失運転致死剤ではないという判断をしただけ、と感じます。

さらに言えば。

134キロオーバーに限らず。定量的な判断というものは必要です。日本の法制度は、この定量性に非常に曖昧さを残しています。また裁判においても、裁判官の裁量といえば裁量の範囲かもしれませんが、それを「一般的な意見として」判決の中に入れることがあります。信義則も、曖昧さの一つの形です。

今回は、危険運転致死罪にはなったけれども、被害者家族の立場では、到底納得のいく判決ではないでしょう。池袋の事件の時と同じように。

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ビジネスのアート思考

昨今、ビジネスにもアート思考が大切である、という論調が高まりつつあります。ミンツバーグも、アート性の大切さは主張ていましたが、その枠を超えて「アート思考(もしくは、アート志向と言ってもいいかもしれません)」礼賛の傾向があります。

無風凧には、この風潮に少し違和感があります。ミンツバーグを持ち上げるつもりはありませんが、彼は、アート、クラフト、サイエンスの3つが大切であり、そのどれかに突出したものではないと理解しています。

ゼロtoワンの著者、ピーター・スティールも、アートの要素が大切なことは主張しているように読めますが、それは、芸術としてのアートというよりは、発想の転換という意味でのアート志向=夢を見る力=批判力(工夫をしたり違う視点で考えたりする力のこと。決して非難する力のことを指しているのではない)が大切だと述べているように読めます。

今、日本は国を上げて、アントレプレナー教育に特攻しているような感じがあります。その中核に、AI とアート思考が陣取っている。違和感以外の何者でもありません。

(そして、アート教育が始まり、みな同じ方向の「アート」を思いつくような教育を行い、結果として本来求められていた「発想の転換(上述の文鳥中の言葉でいえば)」から遠ざかっていく、、、そんな未来が見えます。これは批判?非難?)

 

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雨の音

昨夜は、結構雨が強く、屋根を叩く雨音が非常に気になりました。

以前、「遠くで鳴っている車や電車の騒音よりも、雨が我が家の窓を叩く音の方がずっと耳に優しい(8/30のこのブログ参照)」と思っていましたが、昨夜は逆。耳栓をしても響くし、ブラウンノイズをヘッドホンで流しても、雨が襲ってくるような感じが抜けなかった。ずっと気持ちがざわざわして落ち着かなかった。

今朝は、雨が止んでいるので一安心。

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忖度と選挙

20241126_20241120102401図は、前回第49回の衆議院選挙の年代別投票率です。この図を見るまでもなく、若年層ほど投票率が低いということはもう常識の範囲でしょう。そこで皆さんはよくおっしゃいます。若い者の投票率上げよう、と。そして、その為に高年齢の方が、若者を忖度した政策を決めていく、というのが今の世の中です。

無風凧はこの図を見ていて思ったのです。若いものに投票率を上げるのではなく、高年齢者の投票率を下げるというのも一つの方法ではないか。

もちろんこれは暴論です。選挙=多数決=民主主義という現代の日本において、投票は絶対のものですから、投票率を下げる施策というのはありえないことは承知です。

しかし、高年齢層が逆年齢層忖度した施策をするがあまり、逆に、若年齢層の意見と逆行してしまうということはないでしょうか。現実の社会においても、忖度裏目に出るということはよくあります。立法・施策においても、裏目に出ている、ということはないでしょうか。忖度の結果が、政治不信を助長させる。だから逆年齢層がさらに選挙に行かなくなる。

無風凧の経験においても、特に最近は年代間の考え方の違いに驚くことが多くなりました。若者の気持ち、と高年齢層がおもっているものは、すでに若者の気持ちではなく、高年齢層の方の気持ちにすぎないと感じます。

繰り返しますが、上記はエビデンスベースの話ではなく、また、現代の民主主義において暴論であることは重々承知しています。

いささか行間は飛びますが、これを考えても、平等って何という問題は難しいなと思います。

図引用 第一生命研究所 「シリーズZ世代考(1)「なぜZ世代の投票率は低いのか」」(コチラ 参照)

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